戻る

         

名人のおもかげ資料 三世鶴沢清六 p1〜60

使われた音源 (管理人加筆分)
ニットー 加賀見山旧錦絵(加賀見山廓写本)又助住家の段 二世豊竹古靱太夫・三世鶴澤清六 二世豊竹古靱太夫(山城少掾)義太夫名演集(日本コロンビア KKMS-4)
ニットー 摂州合邦辻 合邦住家の段 二世豊竹古靱太夫・三世鶴澤清六           二世豊竹古靱太夫(山城少掾)義太夫名演集(日本コロンビア KKMS-5)
ニットー 近頃河原の達引 堀川猿廻しの段 二世豊竹古靱太夫・三世鶴澤清六        義太夫SPレコード集成ニットー編(国立文楽劇場 NBTC-3)
米コロンビア 一谷嫩軍記 熊谷陣屋の段 三世竹本大隅太夫・三世鶴澤清六         部分音源へ
独ライロホン 壷坂観音霊験記 沢市内 二世豊竹古靱太夫・三世鶴澤清六          部分音源へ
独ライロホン 関取千両幟 櫓太鼓 二世豊竹古靱太夫・三世鶴澤清六            音源へ
ニッポノホン 安達原三段目 袖萩祭文 二世豊竹古靱太夫・三世鶴澤清六          音源へ
ニットー 摂州合邦辻 合邦住家の段 二世豊竹古靱太夫・三世鶴澤清六           二世豊竹古靱太夫(山城少掾)義太夫名演集(日本コロンビア KKMS-5)
ニットー 増補忠臣蔵 本蔵下屋敷の段 二世豊竹古靱太夫・三世鶴澤清六          暫定音源へ
ニットー 御所桜堀川夜討 弁慶上使の段 二世豊竹古靱太夫・三世鶴澤清六 解説文章なし  音源へ

    

放送記録         

43回 昭和25年6月19日 解説:大西(重孝)綱太夫(八世竹本綱大夫)三世鶴沢清六の「又助住家」(一)
61回 昭和25年7月20日 解説:大西 三世鶴沢清六の「又助住家」(二)
118回 昭和25年12月11日 解説:大西 三世鶴沢清六の「合邦」(一)
125回 昭和25年12月20日 解説:大西 三世鶴沢清六の「合邦」(二)
350回 昭和27年3月24日 解説:安原(仙三) 三世鶴沢清六の「堀川」(一)
353回 昭和27年3月27日 解説:安原 三世鶴沢清六の「堀川」(二)
355回 昭和27年3月31日 解説:安原 三世鶴沢清六の「堀川」(三)
370回 昭和27年5月1日 解説:安原 三世鶴沢清六の「熊谷陣屋」
414回 昭和27年7月31日 解説:吉永(孝雄) 三世鶴沢清六の「合邦」
416回 昭和27年8月5日 解説:大西 三世鶴沢清六の「御所三」

                

 三世鶴沢清六は明治元年静岡に生れ、年少のころから長唄の三味線を稽古したが、明治十七年鶴沢鶴太郎が、静岡へ巡業に行った時、清六の優れた芸を見込んで養子に望み大阪へ連れ帰った。はじめ鶴沢福太郎と名乗り、御霊文楽座への初出演は明治十八年の一月興行で、師匠の没後の明治二十年三世鶴沢鶴太郎を継ぎ、二十六年には三世鶴沢叶を襲名した。名人団平を失った先代大隅太夫へ招かれて、文楽座を退き明楽座開場の明治三十一年十一月よりその相三味線をつとめた。五年の後、大隅太夫と共に文楽座へ復帰したが、明治三十六年叶の系統とは違った鶴沢清六の三世を相続し、明治四十二年六月より二世豊竹古靱太夫を弾いて、大正十一年一月五十五才で亡くなった。三十八年間の斯道生活のあひだに大序へは一度か二度出たばかりで、格の低い太夫の三味線を弾いたことがなく、相三味線を勤めた主なものは、三世織太夫、谷太夫、さの太夫時代の三世越路太夫、六世時太夫、初代呂太夫といった当時の名人上手で、後には明楽座へ走って名人団平を失ったばかりの三世大隅太夫を弾いて、一層芸に磨きをかけた、明治四十二年、二世古靱太夫を襲いで間もなかった、現在の山城少掾を指導することとなって、今日の山城の芸の基礎を築いたといふ明治、大正二代に亘っての三味線の名手である。

清六の代々
 鶴沢清六の初代は大阪平野町淀屋橋の角で、笹屋といふお茶屋を営んでゐた二世清七の門弟で、はじめ徳太郎、後に清六といふ名を起こした人である。靱太夫や初代古靱太夫といった立物を弾いてゐた名人で、明治十一年に没した。摂津大掾や大隅太夫の師匠に当る五世竹本春太夫が「染模様妹背の門松」の質屋の段を語ることになって、その相三味線だった清水町の師匠(二世団平)がこの清六のところへ稽古に行くことになった。「質屋」は初代古靱太夫の十八番で、その三味線を弾いてゐた清六の絃もやかましいものであったからである。清六は「団平はんやったら、よう知てゐるやろう」といひながら一日、団平のために「質屋」を聞かせた。そして「団平はんのことやさかい、きっとうまいことやってくれるやろ」と楽しみにして総稽古の来るのを待って居た。いよ\/床へ上った団平の「質屋」は清六の教えたものとすっかり違ってゐた。そればかりか自分の教へたものよりはるかに立派であった。例の最初の質置きのところ、久作の出の「かくとや白髪、白梅の折知り顔に咲く花を ― 」といふところが特に結構で、一心に聞いてゐた清六はすっかり感心して了った。
 歌舞伎の方でも同じことだが、この世界で、先輩のところへものを習ひに行く。そうすると、一度はその教はった通りを演ずるのが礼儀になってゐるようで、又さうしないと教へた人が非常にお冠りになるといふのがままある。
 顔の上では団平も清六に対しては孫ぐらひのところにあった筈が、この「質屋」の一件で、この道の習慣に左右されることことなく、自分の思ふところを弾いたところに団平の底知れぬ偉さが窺えると同時に、それを怒るどころか、感心して了ったところに初代清六の偉さもあるわけで、これは二名人の逸話として伝へられてゐる
 清六の二世は初代の門人で、鶴沢六三郎から二世徳太郎となった人で、東京生れ、晩年は東京に移り住んで、蠣殻町の師匠と呼ばれた。
扨て三世清六は、静岡生れで、二世鶴沢鶴太郎の弟子となり、望まれて、その養子となったので、永田姓から田中を名乗った人である。二十六才で名家、鶴沢叶の三世を襲つたが、元来、叶からは清八といふ名に進むべきで、清六を継ぐべき家筋ではなかったのである。ところが暫く絶えてゐた清六の名を継いで、昔のやうに立派な芸の家の名前にしてほしいといふ希望で、叶から三世清六を襲名した。
 はじめ長唄の三味線弾きになるべく稽古をしてゐたが、そのまま進んでいても、その道の名人として名を残していたのに相違いないと、山城少掾は、話してゐた。明治十八年一月、御霊文楽座へ出演して、大序へは一、二度出たきり、その後は顔の下の太夫は殆ど弾いていないといはれる。幕内では古い顔役だった浪太夫といふ人、この人は大掾などを「亀やん\/」で通してゐた人だが大へんな肩の入れ方で、鶴太郎時代に弾いたのが、三世織太夫、谷太夫、さの太夫時代の三世越路といったところ、叶になってからは時太夫、はらはら屋といった、初代呂太夫などで、ずっと三段目物ばかりを勤めてゐた。
 明治三十一年、四月、名人団平が急逝して、その相三味線を失った大隅太夫のために明楽座に転じた。稲荷座が瓦解して、そこに立篭ってゐた太夫、三味線、人形によって旗挙げした明楽座はその年の十一月が初開場で、大隅の「伊賀越」八っ目岡崎を三十一才の叶が弾くことになった。文楽座にあって、すでに横綱街道を進んでゐた清六が、それを思い切りよく捨てて明楽座に移ったのは、団平に叩きこまれた大隅太夫を弾くことによって、団平の芸を自分のものにしたいといふ青年の熱情からだろう。(大西)

三世清六
 三世鶴沢清六は静岡の生まれで、家はそば屋をして居た。この間亡くなった四世大隅太夫の叔父に当る、初めは長唄の三味線を稽古して居た。十七才の時に文楽座の三味線弾きの二世鶴沢鶴太郎が大阪から静岡へ巡業に来て、この清六の三味線を見込んで大阪へ連れて帰った。それは明治十七年の事で、文楽座が松島から御霊の境内へ移ったばかりの時であった。この清六の師匠の鶴太郎はなか\/硬骨漢で、住友の広瀬さんといふ人から稽古を頼まれた時でも「旦那の稽古にいくのやったらいやや、師匠と弟子で稽古するのやったらいく」と云い切った程の人である。又「一生楽に食わはして上げるから文楽を止めてはどうか」と言はれても「うちの福太郎を(のちの清六を)一人前に仕立てる迄は文楽を止めるわけにはゆきません」ときっぱり断ったといふ。鶴太郎は静岡で見付けて来た、この福太郎を仕込むのに精一杯の努力をしたので、後に清六が病気になった時師匠の鶴太郎は日夜介抱して、しまひには自分がその病気になってしまって、とう\/それがもとで亡くなってしまった。師匠の鶴太郎は未だ二十九才の若さで死んだが、清六にとっては芸と命の恩人であったから親を失った悲しみであった。
 師匠が亡くなったので清六は三世鶴太郎を継ぎ、師匠の身替りとして、師匠のお母さんにも仕へた。そして二十三才の若い身で、六世時太夫の「陣屋」を弾き、翌年には、はら\/屋の呂太夫の、国姓爺の、獅子ヶ城を弾いた。兎に角二十四の若さで三段目を弾いたのだから、如何に立派な腕を持っていたかが判る。
 三十二年に文楽を出て、堀江の明楽座で、団平に別れた大隅を弾き、明治三十六年に大隅太夫と共に、文楽座へ復帰し、九月には三世叶から三世清六になって、帯屋を弾き、三十九年六月には杉山其日庵の忠告も無視して、大隅が文楽座を出て北海道巡業をする迄、前後七、八年間で、それは三十二年、三十二才から三十九年の三十九才まで名人大隅太夫を弾き続けた。
 大隅太夫は一から十まで団平の弾いた通りの模様なり間で弾くように注文したので、その苦労は一通りではなかったらしい。「わしも大隅を弾かなんだらもっと長生きできたんやが」と、後年漏らしていた位、血を吐くような稽古が続けられた。明治三十九年六月に大隅太夫が文楽座を出た時は、北海道巡業だけを附合って、清六は又文楽座へ帰った。
 清六が大隅に血の出る程絞られて苦労したそのとばっちりが古靱太夫に来た。今度は古靱太夫が攻めに攻めぬかれて声をつぶしてしまった。清六の稽古の激しさは非常なもので、例へば巡業などでその晩の出し物が前の日に前の土地でやったものをする場合でも、朝飯前と、昼と、夕方と三回もどこも抜かずに一段まるごと稽古をした。斯うして大正十一年五十五才で亡くなる迄、前後十二年間も古靱太夫を苦しめ抜いて今日の山城少掾を作り上げたと云はれている。清六は一寸長い顔であったが、若い時分には、つやのある話もあったらしく、娘さんの弟子には仲々甘くて親切であったと伝へらる。(吉永)

 名人団平を擁して文楽座の一大敵国の観があった稲荷座は、明治三十一年四月、団平が先代大隅太夫の「志度寺」を弾きながら急逝しましてから間もなく、六月興行を限りとして瓦解した。
 間もなく稲荷座系統の太夫、三味線、人形の連中を中心に堀江廓内に明楽座が開場することになったが、大隅太夫の相三味線には、後の三世団平である源吉、道八、新左衛門などといふ錚々たる名手が居ましたにも拘らず、文楽座で評判の高かった三世清六の叶に白羽の矢を立てた。当時、叶は三段目語りのはらはら屋、呂太夫の三味線を弾いてゐたのが、そのまま居据っていても文楽では有数の地位に居れた。しかしこの小成に甘んせず、招かれるままに文楽を去って、大隅太夫を弾くことになった。これは稲荷座系統 ― といふより団平の芸により心を惹かれるものがあったのだと見ることが出来る。同年十一月には新しく組織された明楽座が開場するがそれ迄の間を地方巡業にでて、大隅と叶との手ならしがなされたのである。先づ故郷静岡へ帰った清六の叶は、大隅一行が到着すると、朝起きねけに大隅の宿を訪ねて激しい稽古をはじめた。清六が育った文楽座の芸とはすっかり違った大隅は、団平から仕込まれたそのままの芸を清六に弾かせようとして、難しい注文が出る。清六は只今の大隅太夫の父の弟であるから大隅の家に泊まっていたが、家に帰ると、芝居小屋に出勤する幾時間を、譜を書込んだ床本と首っぴきで一心不乱のおさらへが始まる。出勤の時間が迫っても仕度することを忘れてゐる清六に向って、「おい福太郎、もう時間やで ― 」と、度々注意したのを忘れないと、まだ若かった四世大隅太夫はよく見かけたと当時のことを語ってくれた。
 明楽座の初開場は、「伊賀越」の通しで岡崎が、大隅太夫の役場で、お目見得の叶が相三味線を勤めたのであるが、この二人の二回目の役は翌三十二年一月の「千本桜」の三段目切、「すし屋」である。この時、叶は、道行の二枚目忠信の方を弾いた。そしてそのシンの静御前は、後の三世団平の源吉である。大隅の三味線に選ばれて当時日の出の勢いであった叶が、源吉に対してどんな芸を聞かせるか、お客席も楽屋の内もこれ一つに興味をかけられていた。源吉は手薄い三味線ではあったが、景事にかけては実に美しい音色を聞かせた人で、「花に嵐のちり\/ぱっと」のあたりは素晴らしい出来であった。源吉位の芸なら吹飛ばしてやると勢い立った叶も楽屋へ戻って来ると、「やっぱり植畑の師匠には叶はぬ」と、兜をぬいたといふことが伝へられている。団平の薫陶の行き届いたこれらの人々の間に立ち交って、後に清六となる叶の修行がいよ\/真剱になり遂に見事な芸を築いて行ったのである。(大西)

 三世清六が、三十代の古靱太夫の合三味線となって、激しい稽古をつけていたころのこと。三世越路太夫の一座に加はって旅へ出ると、いつもの通り、毎日、清六が古靱太夫に厳しい稽古をつけるので、これを見兼ねた越路太夫が「そないせんかてええやろ」といふにと、清六は「今苦しんでおかんと、後のためにわるい」というて、少しも取合はなかったといふことである。古靱太夫もこの清六に一人前の太夫にしてもらふのだといふことが片時も念願を離れなかったので、どんな苦しみにも辛抱して来たといふよい話が茶谷半次郎の「山城少掾聞書」にとり入れられて居る。
 これと同じような話が名人団平にもあった。団平が大隅太夫を連れて、東京_場町の宮松といふ寄席へ出勤しました時もこと、大隅は団平の厳しい仕込みに堪えかねて、毎日床へ上って語る浄るりが、いかにも苦しそうに見える。自然お客の方にもそれが感じられて、聞き苦しくなって来る。それがもとで悪い評判がたつようになって来たのを案じて、とう\/席亭の宮松三之助といふ人が、団平に向って「私があなた方にお金をかけるのは、お客を呼んで儲けたいからだ。それに悪い評判が立っては折角の興行が台なしになる。明日からあなたの三味線の調子をもっと下げて、大隅を楽に語らせてもらへんものだろうか」と、談じ込みましたところ、団平は即座に「それでは、私はお金を返して大阪へ帰らしてもらひます。あんたの仰言ることも判らんではおまへんが、この宮松亭はたかが四百か五百のお客を入れる場所やおまへんか、ここで調子を下げて弾いたら、大隅は大阪へ帰って声が出んようになって、私が笑われます。もう大阪へ帰らしてもらいまっさ」と答へたといふことである。
 この団平を失ったばかりの大隅太夫を弾くために、清六は文楽を去って明楽座へ走った。当時、清六は文楽では三段目を弾くといふ確固たる地位にあったが、そのまま小成に安んすることができなかったところに清六の芸に対するひたむきな向上心を物語るものだとされてゐる。
 明楽座では、団平に仕込まれた大隅からすべてを団平師匠の弾いた通りを弾いてくれといふ注文である。名人団平の弾いたような模様なり、間なりを弾くといふことは、流石に清六ほどの技量の人にとっても容易なわざではなかったことと想像される。だから、大正十一年五十五才で亡くなる病気中で「わしも大隅さんを弾かなんだら、もっと長生きできたんやが ― 」と述懐していたといふことである。この三つの話を総合して考へると、厳しい浄るり修行の精神は団平から大隅を経て清六にうけつがれ、そして又清六からそのまま山城へ叩き込まれたのではないかと思ふ(大西)

 御霊文楽座の一月興行から入座、後に師名鶴太郎の三世となり、二十六年三世叶を継ぎましたが、三十六年九月、先代大隅太夫の「帯屋」を、弾いて三世清六を襲名しました。大隅太夫の相三味線となりましたのは、明治三十一年の明楽座からで、三十九年文楽の六月興行迄このコンビはつづきました。明治四十二年六月、二世古靱太夫を襲いだばかりの只今の山城少掾さんの相三味線となりましたが、これは初代清六が初代古靱太夫の相三味線を弾いた由縁によるものであります。そして大正十一年一月五十五才で没する迄、この相三味線は十四年間つづきました。最後の舞台には古靱さんの「本蔵下屋敷」を弾いたのであります。では、大西さんの解説をお願いしませう。

 三世清六が古靱太夫を弾いてゐた時のこと。芝居でどんな役がついても、清六は必ず山城少掾を連れて二人で松屋町の師匠六世豊沢広助を訪ねて稽古を受けたといふことである。清六はさうした時はきまって新しい本を持参して、松屋町の師匠から聞いたものを丹念に朱にとった。かうした稽古が三日つづいて、その最後の日には山城を自分の家に連れて変えるのであるが、そこでは予め準備しておいた古い朱を較べて、ここはこの本の通りにしよう、あそこは松屋町の朱でいかうといろ\/工夫を重ねながら、本芝居でつかふ朱章を決めるのが例であったと、「山城聞書」に記されて居る。かうした工夫の結果、床へかかった山城と清六の浄瑠璃は如何に面白いものであったかといふことは誰しもたやすく想像の出来るところである。
 「伊賀越」の沼津の弾出しの面白さなど、いつもお客がワ―ツと感嘆の声を挙げたといふことである。「加賀見山」の又助住家の段で、庄屋の次郎作出の軽妙な面白さには、若い三味線弾きの連中が、われも\/と清六師匠に稽古をつけてもらって、その興行の楽屋の内はどこでもかしこでも「又助」オンパレードの有様だったと綱太夫が話してくれたことがある。
 又こんな話もある。清六は芸の上では比類のない名手であったが、日常生活の上では、仲々無理を言ったひとであり山城もこの清六の仕打ちをはらに据えかねて、暫く袂を分ってゐたことがあるといふほどであった。旅先で機嫌を損じると「もう帰る。早う汽車を呼んで来い」など言ったことは嘘ではなく、事実あった話である。
 ある弟子が、やっぱり清六師匠のこのやうな無理に業を煮やして、怒りが爆発した揚句、師匠をおいてきぼりにして大阪へ帰ろうとした事件があった。と、その内、師匠の出番が来たので、この弟子の朋輩の一人が「オイ、お師匠はん。舞台へ出はるデ」と注意したところ、本人は「イヤ、おれ往んだろネン」と、プリプリしてゐる。ところが舞台裏へ一寸足を踏み入れると、師匠の三味線は実に素晴らしく見事である。帰るのも忘れてじっと聞き入るといふ始末。やがて段切近くになって「アア師匠はよう弾きよるわい。アレダケ弾けたら無理も言ふやろ」と独り感心してゐる。清六が床を下りて来ると、「もう帰る」と言った本人が、そこに突立ってゐるから「お前、まだ帰らなんだか?」「お師匠はん、帰るのんやめまっさ」 ― と頭を下げた。これは作り話でなく、清勇といふ実在の男の話である。この男が発奮して、後に一人前の三味線弾きにでもなって居たら、いよ\/面白いのであるが、残念ながら、ずぼらで途中で文楽をやめて了った。(大西)

         

大西と綱太夫の対談
大西
 それでは、綱太夫さん、あなたのお師匠様の山城さんが、二世古靱太夫を襲がれて間もない頃から先代清六さんが ― 三世清六さんがその相三味線となられてまして、十数年のあひだ、厳格な稽古によって、今日の山城少掾の芸を築きあげる素地をつくられたときいてゐますが、あなたは清六さんの激しかった稽古振りや、人なりを御承知だと思いますのでそれを後でお話願へませんか。
綱太夫 師匠が今日のように大成されましたのは、全く清六師匠のお陰である事は今更申すまでもありません。師匠の宅が住吉にありました頃、そのお部屋に「師恩」 ― 師匠の御恩ですね ― 「師恩」といふ額がかかってゐまして、その両側に法善寺の津太夫即ち七世綱太夫と名庭絃阿彌六世豊沢広助と、そうして、この三世清六師匠のお写真が飾られてゐましたが、これはいかに師匠がこの三人の方の御恩を深く感じられてゐるかを物語るものだと思ひます。
 稽古の厳しさは申す迄もありませんが、旅興行の場合など、素浄瑠璃で、毎晩語り物が替るのですが、夜舞台へでます迄、朝、昼、夕と三回、チャンとオクリから段切迄、詞も省略せずに丁寧に稽古をつけられるのです。毎朝食事が済みますと、その日の語り物の対本をもって清六師匠のお部屋へ伺って、御機嫌を見計らっては、御稽古をお願ひしますと、頼んで居られました。清六師匠は大体掛け声の少い方でしたが、障子なり襖をへだてて聞いてゐますと、凄まじい気分の篭った掛け声、それがとても美しい掛け声なのですが、太夫を激励するやうに洩れて来ましたのを記憶してゐます。こんな稽古が毎日、三度三度つづけられるのですから、さて舞台に立たれる迄には相当へとへとになってゐられたやうです。
大西 あなたの入門当時なら、山城さんは三十代、清六さんは四十代、先代大隅さんの三味線を弾いて惨々苦労をされた先輩ですから、山城さんは恐らく今日の言葉で云へば体当たりで、ぶつかって行かれたのでせうから、定めし凄かったことでせう。清六さんは芸のことにかけては実に厳格すぎて、時としては傲岸にさへ見えたといはれていますが ―。
綱太夫 師匠以外の太夫が道行なぞの掛合ひものに出られる場合なんかには、御機嫌が悪いと、相当大きな声で、隣の三味線に向って「あんなこというたら弾かれへんな」など平気でいってゐられたといふことです。先代大隅師匠を弾いてゐられた頃「千本桜」の鮓屋を弾いた後、道行の二枚目を勤められたことがありますが、三段目を弾いてすぐ、道行といふのですから、ナオどんなに巧く弾かれるかと楽屋内は大へんな評判でした。といふのがシンの三味線は上畠の師匠といはれた三世団平(この方の三味線の音色はあまりよくなかったといふことですが)でしたが、幕が下りますと、清六師匠は「やっぱり上畠には叶はんわ」と述懐されてゐたと聞いてゐます。
大西 あなたも清六さんに、直接お稽古をしてもらはれたことがありますか。
綱太夫 いろ\/御稽古はしていただきましたが、中でも長局。流しの枝、淡路町芸六などは忘れられないものであります。御稽古の最中あまり音が大きく気合いが鋭いので、つい気おくれがして、次が語れなくなると「構わんとやりんかいな」といはれたものです。
 師匠の東京の御贔屓で野口小 といふ当時南画の方では女流第一といはれた方のお邸で御座敷をつとめられた時、師匠の御推薦もあったのでせう。一度子供大夫の浄るりを聞いてみたいといふことで、私は沼津を「お米は一人」から二十分程語らせていただきました。この時清六師匠は「わしが弾いてやる」と申されて御自身で三味線を弾いて下さいましたが、十三、四才の子供にとって生涯忘れ難い想い出の一つであります。この御稽古の時、「古靱ッあんに稽古してもろたんやったら、それでよい」といはれましたが、丁度その頃、師匠は清六師匠について沼津を稽古されている最中だったので、師匠は忘れぬ間にと申されて、私に教へて下さってゐた時のことですから、習いたてのホヤ\/だったわけです。
大西 これから山城さんの古靱時代の吹込みで「又助住家」で清六さんの三味線を聞かうと存じます。
綱太夫 清六さんの「又助住家」は実に結構なものです。師匠は清六師匠で二度語ってゐられますが、初役の時は五行本通りの、で、二度目は院本に準じた改訂を施されてゐました。五行本では「天なるかな。命なるかな」となっていますが、院本では、「天なり命なり」となってゐます。又「まさかの時の足手まとひ」は「まさかの人質足手まとひ」となっています。この「又助」が本興行の開場前に選ばれて若い者が掛合いで語ったことがありました。
大西 大正十年のことで、大序や序中の太夫の三味線や人形の若手奨励会の意味だったのですね。
綱太夫 さうです。みんな清六師匠のところへお稽古をしてもらひに行きましたが、その面白さは一ぺんに好きになりまして、大序の前の三番叟をつとめる三味線弾きなどは、その腕固め(練習)のために、段切近くの庄屋の出のところを弾いてゐましたが、あちらでも、こちらでも、あの軽妙なチンチンガン\/で、どこもかしこも「又助」オンパレードといった風で、みんなが一生懸命に清六師匠を真似たものです。
大西 いやどうも面白いお話を聞かせていただきまして有難う。

             

<又助住家>
 ではこれから二世古靱太夫の「又助住家」で三世清六の三味線を聞いていただこう。

(_泣く\/ ―  長の夜も) 以下参考音源:二世豊竹古靱太夫(山城少掾)義太夫名演集(日本コロンビア KKMS-4)

 この「又助住家」は「加賀見山廓写本」の七段目である。この端場では又助の女房が、旧主求女の帰参の為、身を売るが、その女房が轡屋といふ女郎屋の亭主に連れて行かれた後を受けて、「泣く\/揺られ行く」といふマクラになる。このうら淋しい情景を写す三味線、「心は暗き角行燈」などの前後は実に結構だと思ふ。
「 つと  とを ―
◎ヤ一四四、二行目、「ヤアあなたは安田庄司様と、いふにびっくり又助も 鳥井又助と申す者」

(_誰あらう安田の御家内 ―      即ち所は筑摩川で)

又助はお家のねい人蟹江一角を討ったとばかり思い込んでいゐのでるから、家老の訪れは、てっきり求女の帰参が叶ふものと、一語一語がはづんだ調子になってゐる。

(_ホホいかにも、身共が手に入る其剱 ―  止め兼ねてぞ見えにける)

又助の予期に反して、大殿の死を知り、しかも証拠の一腰から、主人求女にまで疑いがかかろうとする。この又助の苦悩から、何を思ったか、子供の首を討ち落す狂気の振舞ひから求女が竹槍で突刺す修羅場になる。この辺の三味線は凄い程冴えて来る。「又助住家」は今日では余り文楽ではでないが、素人浄るりではよく流行ったもので、筋は単純であるが、世話物の中に時代な味があり、物語もあればクドキもある。また軽妙なところもあって、清六の三味線を味ふのに殊に格好なものと思ふ。

(_斯く顕れし上からは、教への言ふに従ひし)

ここから眼目の物語になるが「今や来ると待つ折から」の合の手など、北陸第一の大河信濃川の上流をなす筑摩の川面一杯に篠つく雨がとじこめてゐるといふ物凄い夜の景色を清六の雄揮な撥が摘き出す。

(_我身の運命筑摩川、悔涙にくれてゐたる)

ここへ轡屋へ身売りした女房が戻って来て「わしも一所に死にます」と自害をするが今日は割愛して、その女房のクドキの件を聞いていただく、引続いて「血走る眼」から一転して軽妙な庄屋の出になります撥さばきをお聞き願いたい。

(_嘆けば女房も、むせ返り、粉にしてくれうと云ひ合せ)

 次の「庄司制して」から再び時代になって、その一段の結末をつけて居る。

(_御家老様へ御味方を、本国さして立ち帰る) (大西)

            

<合邦> 山城少掾が二世古靱太夫といった頃の相三味線をつとめた「合邦」をお送りするが、これは大正十年頃、只今から三十年程まえに吹込まれたものである。

(_しんたる ―  門の口)以下参考音源:二世豊竹古靱太夫(山城少掾)義太夫名演集(日本コロンビア KKMS-5)

 この「摂州合邦辻」は謡曲の「弱法師」から種をとった 管専助の作で、らい病といふ忌はしい病気になった為、家出した跡取りの俊徳丸の後を逐って出た継母、玉手御前のことを世間では道ならぬ恋だと噂してゐるが、天王寺の片ほとりに住む玉手の父親、合邦道心の住家で、二人が落合った事件から、玉手の行動は、子供を家督争ひの渦中からかばはんとする母親としての真情が判るのである。

(_立寄る跡より ―  合点がいかぬと立上る)

 女房の気持ちにほだされた合邦も、流石に親としてわが子の顔を見たさに 玉手を内に入れる。そして母親は世間の噂を否定する言葉を聞こうとしたが、逆に継子に対するみだらな恋慕の情を打ちあけられて呆れる。次はその有名な玉手御前のクドキがあるが、清六の美しい三味線が悩しい中年の女の恋を充分に表現している。

(_面映ゆげなる ― _引立て\/無理やりに 納屋へ)

 業病を患った俊徳丸が、前世の悪業消滅と家出したのを 継母である玉手御前が後を慕ふて 遂に両親の合邦夫婦のところ迄たどりつく。わが子の不義を怒る合邦をなだめた女房は娘を尼にして言訳しようと無理に納戸へ連れて入るところ迄を 前回に放送した。この家には俊徳丸とその許嫁の浅香姫とがかくまはれてゐる。
 今日はこの二人が玉手の来たことを知って再び抜け出さうとするのを気取って、玉手が駈出すところから始める。

(_気を急ぐ折しも ―  ― 涙 涙を添へにける)

父親の刃をうけた玉手は、高安家の家督争ひの陰謀を語り、俊徳丸の命を救ふと共に次郎丸の悪心も自然と止めさす為、継子二人を傷つけないやう、心にもない不義淫らと見せかけたものだと本心を打明け、俊徳丸の病気も自分の血を呑ますと治ると告げる。愁嘆にくれる父親は、せめて百万遍の数珠の中で往生せいと、数珠をくりひろける。

(_外には父の親 が ― ― 古跡をとどめけり)(大西)

           

<堀川>
 今日は三世鶴沢清六の「堀川猿廻し」を聞いてみよう。太夫は此の吹込当時、二世豊竹古靱太夫即ち今の山城の少掾、ツレ弾は鶴沢芳之助、後に五世鶴沢弥三郎となった人で三世清六の養子であった。「堀川」と云へば又かと云ふ方々があるかもしれないが、此の位に世間に好かれてゐる浄るりもないし、「そりや聞えませね傳兵衛さん」とか「お猿は目出度や\/な」と云って大変に親しいものである。事実私も亦之れは数ある浄るりの中の傑作と信じている。文章も思想もあまり現代とかけ離れて居らず、それに此の一段の節付がよい。殊に三味線の手が大変面白く何度聞いても嫌が来ない。堀川のレコードは随分沢山あるが、一段纏ったものは割合に尠い様で大抵お俊のクドキか猿廻し位のものである。之れからお聞に入れるものはまあ代表的のものと思ってゐる。外にもあって、夫々特長があるが、之れが一番よくはないかと思ってゐる。唯吹込みが大正十年頃で、その当時は唯今の様な電気吹込でなく喇叺で吹込んだものであるから、録音と云ふ点で大変聞劣りがするのは残念である。

(_同じ都も世につれて ― ― 弾き手もしほらし)以下参考音源:義太夫SPレコード集成ニットー編(国立文楽劇場 NBTC-3)

 唯今のマクラは実に好いもので京の町中貧しい盲目の老婆が師匠屋をしてゐる情景がよく出てゐる。之は作曲者にも手柄があり、演奏者がよく\/下手でない限り此の気分は出せるものである。
 次に母親と三味線の稽古に来てゐる近所のお鶴と云う娘との鳥辺山の掛合があるが、此処が「堀川」の最初のヤマである。此処は昔は三味線にツレ弾きを使はないで、一人で弾いたそうである。五世豊沢広助もツレ弾を使はなかったそうである。之れは切の猿廻しをツレ弾入りを引立たす為とか 淋し味を出す為とか、母親の文句「どれ\/私と掛合に唄いませう」とあって「掛合に弾きませう」となかったとか色々理由があるが、此の掛合が済んでからの母親の詞に「精が出る程あってきつう手も廻り出した」の文句があるので、私は矢張り現在の様にツレ弾きを入れた方が好いと思ふ。それから掛合の文句「女肌には」以下は娘と母親の掛合で唄う処で之れを殊更娘の唄、母親の唄と区別して語る人があるが、よく節付を聞いて見ると 自然に娘と母親の唄とに区別して作曲してあるので、ワザと区別する必要はあるまいと思ふ。尤も娘の唄だか 母親の唄だか分らぬ様な語り方をする人は以ての外である。

(_女肌には ― ― 声にしほれがないわいナア)

 之れから掛合が済んで兄の猿廻し與次郎が帰って来る。この與次郎の性根は律義で臆病で 好人物なので決してチャリ滑稽な人物ではない。注意して語らないとチャリ風になって了ふ。人物のカシラも又平と云ふ 吃の又平のカシラを使ふのは正しい使ひ方と思ふ。

(_アノ面白さを見る時は ― ― 上白米の仕送り)

 與次郎が母親に心配させまいと思って作り元気をならべるのもその好人物らしさがよく表はれていて、ほほ笑ましい風景である。それから娘のお俊が奥から暖簾越しに出て来る。文楽の舞台では此処で舞台はほんのりと色気が出て来て、何とも云へぬ好い気分になる。

(_店々の旦那衆から ― ― 母は一途に娘の可愛さ)

 今日は此処まで。今お聞きの通り大正十年頃の山城は名人の三世清六と一番イキが合って 油の乗り切ってゐた時代で、今日とは一寸語り方が変わってゐる様に思ふ。

 前回は兄の與次郎が、妹のお俊に対し、その身の上を案じるところまでであった。母親も娘に _若い気に跡先思はず、義理じゃ、いや人の落目を見棄ててはと詰らぬ義理を立てぬいて、年よりの此の母に辛い目をみせて給もんなや、 と、涙を流してたのみ入る。此の一句は此の一段のテーマの一つとも言へる大切な処である。
お俊は此処で退き状、縁切り状を書くと言って書置を書くが、今日はそこから始める。此処でお俊の言葉 _殊に又傳兵衛さん、つい一通りで逢ふた客、深い訳ではないわいな   
の文句から、半太夫サワリと言って半太夫節になり、玄人筋は大変に楽しんで語る処である。マア堀川と言えば、 _そりや聞えませぬ傳兵エさん とか _お猿は目出度や目出度やな とかで 待っていました、と声がかかるが ほんとはこの半太夫のサワリ、前のサワリと言ふが、この辺の方が面白い。

(_かか様、兄さま ― ― あっちのため)

此の次 _詞に否も泣顔をかくす硯の海山と、重なる思ひのべ紙に筆の立てどの後や先 この辺の三味線をタタキといって、なだらかに、又爽やかに弾くものである。此の辺、清六の三味線の見事さを充分御気にとめて鑑賞願いたい。何度きいても厭味がでない。
_硯の海山 のところや 思ひのべ紙 の辺の美事さ、又 _筆の立てどの後や先 の次の溢るる様な色気は 何とも言へない。

(_我が身に心ひかされては ― ― 哀れ添ふ)

 之から伝兵エが尋ねて来てお俊を呼び出す処になる。此の辺は、太夫の口捌きがむつかしいところで、急ぎ過ぎると何を語ってゐるのかよく分らないし、ゆっくりすると間の抜けた様になってしまふ。大体「堀川」では與次郎が一番難しいのではないかと思ふが、又傳兵エが 何でもない様で語り難いのではないかとも思ふ。

(_頃しも師走の ― ― 無念なわい)

 これからお俊の書置をよむ処になるが、どうも書置と言ふものは、此の「堀川」にしても「酒屋」にしても、少し長が過る様に思はれる。こう言ふものは少し縮める様、書き直さないと退屈になって了ふ。これはかねがね私の思ってゐるところである。

(_口惜しい と歯を喰いしばる― ― そりや聞こえませぬ伝兵エさん)

 今日はお俊のサワリ「御詞無理とは思はねど」からはじめる。よくかう云う処はサワリと云はず、クドキと云う方が正しいと云ふ。そして此の後母親の「オオさうじゃ\/」からを母親のクドキといっている。此のお俊のサワリはどうも調子に乗りすぎる様になり勝ちであるが、此処は 躍らぬ様に 又派手な中に常に心の中の陰気さを失はぬ様に心懸ける事が 大切であると云ふ事だ。此のレコードでは古靱太夫も清六も極めてサラリと運んで、ほんとにすっきりした演奏をしてゐる。大体この「堀川」では 母親が一番よく書けてゐる様に思ふ。殊にこれからの母親のクドキが大変よく出来て居り、文章も良いし 又節付けが素晴しく出来てゐる。お俊のサワリの「世話しられても恩に着ぬ」も名文句であるが、母親の方は全体に親としての子に対する情は 今日の世の中に当てはめても少しも不自然を感じない。此の母親の詞に「云ふもおろ\/ 母親も オオ さうぢや\/」と云ふ処があるが、此処で「さうぢや\/」と重ねる語り方は後に出来たのではないかと思ふ。丸本を見ると「オオさうぢや」と一つ丈になってゐる。一つであると「おお さうであった」と自分で悟る意味になるが、「さうぢや\/」と重ねると 與次郎に合槌を打つ様にも聞える。之は、母親自身が悟ると云う事の方が、深味があって良い様に思ふ。尤も三味線の手は「さうぢや\/」と重ねる様についてゐるので 大抵は、この様に語る方が多いが、今の山城は一つ丈の方を語ってゐる。此のレコードでは二つに重ねてある。

(_お言葉無理とは思はねど ― ― 袖喰ひしばりしゃくり泣き)

 次に與次郎の哀れさは、母親のクドキが済んで お俊と傳兵エを 京の町を落としてやる辺りによく表はれてゐて、此処に與次郎の性根がある。此処をよく弁へてゐると 與次郎の性格がはっきり掴めて チャリがかった語り方は出来ないようになると思ふ。
 それから猿廻しに入るが、此の猿廻しには昔から三つの弾き方があり、その一つは五世松葉屋廣助の型、これは昨年なくなった六世友次郎が弾いてゐた。その次は三世野沢吉兵エの型、これは現在の二世鶴沢清八が用ひて居る。その三は、二世豊沢団平の型、これが今一番多く用ひられて此のレコードの清六も 此の団平の型で弾いてゐる。このレコードのツレ弾きは鶴沢芳之助 後の五世鶴沢弥三郎である。

(_傳兵エ様の難かしやるも ― ― 腹立ててゐさんすわいの)

 猿廻しの三味線は、中々難しいものであるが、玄人になると、いと平気で弾いてゐる様に聞える。語る方も派手に語り、三味線も「ノリマ」を外さぬ様に弾く事が大切である。「ノリマ」を外さぬと云へば、西洋音楽で云ふピッチの乱れぬ事を云ふが、清六の三味線は、かう云う処は大変美事である。

(_コレお初さん ― ― さんな又有ろかいな)

 これからいよ\/段切れになるが、「ササキリ\/ 此の家を猿廻し」以下賑やかに語り 賑やかに弾けば良いので、何時聞いても楽しいものである。殊にお俊 伝兵エも遂に心中しなくても済む事になるので、普通の心中物の様な暗い先行がなくて 段切を楽しむ事が出来る。

(_日和を見たらば落ちて給も ― ― 辿り行く)(安原)

          

<陣屋>
 明治三十六年 三世大隅太夫が 文楽座へ入座した時、正式に相三味線となって 大隅の芸に叩き込まれたが、此の時は、大変苦労したものであった。この時代に大隅太夫と共に吹き込んだレコードに「壺坂澤市内」「熊谷陣屋」「鮓屋」及び「鰻谷」があるが、今日は その内「熊谷陣屋」をおききに入れよう。「鐘は無常の時を打つ」から、七面にわたって入れてあるが、今日はその第一面だけにしておく。

(_鐘は無常の時を打つ ― )
 
雑音が出て、いささかきき辛らかった事と思ふが、これは明治三十八年の録音である。
この頃は、三世叶より 三世鶴沢清六に改名してゐた。叶の名前と清六の名前には 余り深い芸の系統はないのである。この清六の叶は、三世 鶴沢勝次郎と名のりたかったが、それが或る事情に依って 思ふ様に運ばない。むしゃくしゃして、或る日、法善寺津太夫の家に行くと、このお内儀さんが、そんなら私の家にある 清六の名を継いで貰へぬか、そんなら継ぎませうと言ふ様な訳で 極く偶然の機会に 叶から清六になったのである。 (安原)

         

<壺坂>
 大隅太夫が 明治三十九年に文楽を出て 堀江座へ入座したので、清六は、文楽座へ止って、明治四十二年、二世豊竹古靱太夫 即ち 今の山城少掾を弾く様になった。山城も此の時から 激しい稽古がつづいたのである。では、此の時代、明治四十三年頃の 清六の芸を聞いて見よう 曲は 壺坂の マクラ
_ゆめが浮世か 浮世がゆめか のところ、太夫は 二世豊竹古靱太夫、即ち 今の山城少掾 三十三才位の時である。

(_ゆめが浮世か 浮世がゆめか ― ― よし足曳きの大和路や)部分音源へ (安原)

         

<櫓太鼓>
 これも明治四十三年頃の録音ではないかと思ってゐる。昭和八年頃のこと、山城の少掾が これを電気再生して故人の知合の方々へ配られた事があるが、今おききの分はその原盤である。 音源へ

          

<安達原>
 この時代の山城は、此の清六について一生懸命 勉強したが、何しろ清六は 以前に、三世大隅太夫をひいた事もあり、二世団平にもついて稽古した事もあり、芸の上では、遥かに先輩であったので、勢い山城を小馬鹿にした様にした事がないでもなかった。それらの様子は、これからおききになる安達三段目にて窺はれる様に思ふ。
録音は、大正六年頃でワシ盤。

(_只さへ 曇る ― )音源へ

 こんな事で山城と清六とは、一時別れたことがあったが、もともと、芸熱心の二人の事であるから、又々仲直りして、以前より増して好い夫婦になり、そして清六の撥は、益々冴えて来た。 (安原

         

<合邦>
 その妙芸は これからの「合邦」の切りで 充分満足がゆくと思ふ。
録音は、大正十年頃で ニットー盤

(_歎きの中に母親は ― )

中々美事なものだ。(安原)

           

<本下>
 此の三世清六は生れつき どちらかといへば、身体は細い方で丈夫とはいへなかった。然し此のニットーレコードの森下と言ふ方が 仲々 義太夫に熱心で、殊に古靱太夫 清六の吹込みに力を入れてゐた。それで清六も 熱心にほだされて 大正十一年一月九日、少々風邪気味を押して「本蔵下屋敷」の吹き込みに行った。その時、どうも元気がないので、皆今日は止めにしたらと勧めたが、清六は「何 弾き出すと 治りますよ」と押して 本下十六面の吹き込みを終へた。これが原因かもしれないが、その十日後の 一月十九日の日に五十五歳と言ふ一番脂ののり切った時代に 遂に肺炎でこの世を去った。それでは清六最後の録音、死ぬる十日前の吹き込みになる「本蔵下屋敷」の段切をお送りする。

(_うかれし事も ― )暫定音源へ

 心なしか 清六の糸に どことなく弱さが感ぜられる。近世の名手 三世鶴沢清六の 最後より十日前の妙芸を偲びつつ今日の放送を終る。(安原)