住大夫師の引退特集番組を見ていて、別に義太夫を習ったことはないが、鬼からの「しっかりせい」のひと言は胸にこたえた。
竹本摂津大掾の相三味線だった六世豊澤広助、後の名庭絃阿弥も、やかまし屋と呼ばれた人であった。昭和の初め頃、名庭絃阿弥の七回忌に出版された「なにはの俤」の中でも演劇評論家の三宅周太郎氏が追善の文に、義太夫のようなものは、結局底なしの井戸に比すべきで深さははかり知れない 分れば分る程むつかしい さういふ性質の「禅」に似たようなものだ これはやかましくいふ方が本当で・・・ と記しており、それだけに文楽に今でも一人のやかまし屋がほしいと述懐している。
名庭絃阿弥は、苦労人でもあった。芸熱心で彦六座の名手として活躍したが、彦六座の退転のあおりで借金を肩代わりすることとなった。三味線屋を営み、随分と質素倹約にも努めながらも修行に精進した。その後、六世広助を襲名し、摂津大掾の相三味線として名実共に三味線弾きの大御所となった。その芸のすべては三世鶴澤清六に託されたのだが、むなしく清六師は先に逝ってしまった。代りに、豊竹古靱太夫(後の山城少掾)が追悼文で、今の自分があるのは師匠の二世津太夫師、絃阿弥師、そして三世清六師のお陰であると述べている。近代化の影響で多くの固有の文化が廃れてしまったが、そのなかで義太夫節は、辛うじて生き延びた稀有な例である。それは、損得抜きで、厳しいながらも善意の稽古が繰り返されてきた結果ではなかろうか。
さて、まもなく素浄瑠璃の会もあるが、これからが中堅どころの真価が問われる。益々の研鑽を期待しつつ、実力発揮を祈ります。また休演の方には、心からご快癒をお祈り申し上げます。しばらく特集は、「名人のおもかげ資料」の補足を続けていきます。今後とも宜しくお願い致します。
参考:なにはの俤(私家版) 文楽の研究(岩波文庫)
2014. 6. 28 大枝山人