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名人のおもかげ資料 二世豊澤新左衛門

            

使われた音源 (管理人加筆分)
ニットー 壇浦兜軍記 阿古屋琴責の段     二世豊竹古靱太夫 二世豊澤新左衛門  義太夫SPレコード集成 ニットー編I NBTC-4 国立文楽劇場  平3
ビクター 傾城恋飛脚 新口村の段 梅川忠兵衛 五世竹本錣太夫  二世豊澤新左衛門  全曲(国立国会図書館 歴史的音源 図書館限定)
ビクター 本朝二十四孝 十種香の段      五世竹本錣太夫  二世豊澤新左衛門  全曲(国立国会図書館 歴史的音源 図書館限定)

       

放送記録
 67回 昭和25年7月31日 解説:大西 二世竹本春子太夫と豊沢新左ヱ門
130回 昭和25年12月27日 解説:大西 二世豊沢新左エ門の「新口村」
240回 昭和26年8月30日 解説:大西 二世豊沢新左エ門の「阿古屋」(1)
256回 昭和26年9月26日 解説:大西 二世豊沢新左エ門の「阿古屋」(2)
382回 昭和27年5月30日 解説:大西 二世豊沢新左エ門の「十種香」
388回 昭和27年6月13日 解説:吉永 二世豊沢新左エ門の「新口村」

        

 二世豊澤新左衛門は、慶応三年五月、大阪福島に生れて、新町に育ったが、十三才の時、豊沢松太郎に入門して松吉と名乗り、明治十七年博労町いなり北門の席で初舞台を踏む。のち松三郎と改め、明治三十一年四月、彦六座で春子太夫の「_源氏伏見里」を弾いて二世新左衛門を襲名した。いなり彦六座が開場した明治十七年の九月から師匠と共に入座し、稲荷座、明楽座、堀江座、それから最後には近松座と引続き純然たる彦六系の芝居に出演した三味線弾きで、この間、主として二世竹本春子太夫の相三味線を勤め、大正九年十月、彼と共に座を退く。文楽座へ出座したのは、大正十一年四月のことで、前後二ヶ年の間 山城少掾 当時の古靱太夫を弾き、後には永く竹本錣太夫を指導したが、昭和十八年三月、肺炎で歿。享年七十七才。

        

(新左エ門)
 明治三十一年 稲荷座の四月興行で 松三郎といった新左エ門が二世を襲名した。この興行の初日には大團平が大隅太夫の「志度寺」を弾きながら急逝したといふ。皆様御承知の浄瑠璃史上における大事件が起った。襲名といふ記念すべき慶びの興行が最も大きい悲しい事件を招いたのである。
しかし、新左エ門の生涯の中で最も華やかな時代をつくった二世春子太夫との連繋も亦、この時に始まった。襲名狂言は「_源氏伏見の里」で春子太夫の役場であった。この二人の関係は 稲荷坐が明楽座となり、堀江座となり 更に近松座となるまで続き つひに大正九年京都の竹豊座の十月興行を限りに二人が休座するに及んで終ったが、この間、実に二十三年の永きに亘って居る。
 春子太夫の一風変った陰に篭った浄瑠璃に対して、新左エ門の三味線は低調子ではあったが、美しく而も華やかな音色によって、春子太夫の浄瑠璃がどれだけ面白くなったか判らない。事実二人のコンビが破れてから春子太夫の浄瑠璃が悪くなったと評した人もある位である。この新左エ門の美しい音色は決して天賦のものばかりではなく、長年の研究と修行とによって生れたもので、そこに新左エ門の値打ちがあると思ふ。
 これからお送りする「新口村」は新左エ門の得意のものである。このレコードはよく入っているが、少々録音の加減から鋭く聞えるやうであり、私自身の記憶では、実際はもっと和やかな、ボンヤリしたものだったと思ふ。
 新左エ門が楽屋で調子を会している傍で、門弟の一人が「お師匠はん、えゝ音がしまんナ」と感心すると新左エ門は右の手首を打へて「こゝが違ふ」と答へたといふ話を聞いたが、これは芸人の一種の稚気から出た言葉と解釈したい。
 またある人が同じやうに新左エ門の音色の美しさはどこから出るかと質問した時「わてはそれをいはれるのが一番辛ろおます」と答へたといふのは、常に美しい音色を出さねばならぬことが、いかに本人を苦しめていたかといふ証拠になると思ふ。
 人に褒められて、機嫌の悪いものはないだろう。お師匠はんこれおいしおはんナといへば、アゝ沢山持って帰っておあがりお師匠はんこのかしわ、よろしおまんナ、これ鳥政のや、新左エ門の家からといふたら勉強してくれるデ、といった調子で、新左エ門に度々ご馳走になったものがある筈だ。
 人形芝居の楽屋には、それぞれ芸人の定めの席の眞上に当る鴨居のところに筆太に芸名を書いた紙切れが貼ってあるが誰の悪戯か、新左エ門の上には、「豊沢金左エ門」と記してあつた。楽屋で自慢するのを「金太郎」といふがこの「金太郎」をもじって新左エ門を「金左エ門」とやったのを若かりし頃の美男の面影を残した老師匠が、キチンと坐っていた図を御想像願ひたい。
 春子太夫と別れてから、京都に旅館を営んで悠々自適していたが、大正十一年一月、古靱太夫(後の山城少掾)の相三味線だった先代清六が亡くなった後釜に招かれて、文楽座に出演するやうになった。
 其の後は堀江座で働いていた錣太夫を弾く様になつたが、錣太夫は御承知の様に随分勝手な浄瑠璃を語った人で、一段中、何度も脱線するのを新左エ門が、よく軌道にひきもどし、しかも新しい音色で錣の癖の多い浄瑠璃に湿ひを添へていた。
 晩年はよき太夫に出会はず、配役の上では悲境にあつたが、「この頃は幼稚園の先生で、鳩ポッポと\/と手を叩いて歩かしてんね、しかし此の頃の子供は仲々手剛うて、先生の言ふこと聞きよらん」
 と嘆声を洩していたのはその頃のことである。しかも、その時、新しい音色は衰へず、死ぬまで破綻をみせなかったのは、偉いものだと思ふ。 (大西)

       

 二世豊澤新左衛門は慶応三年五月廿三日、大阪北区福島の旧家の二男として呱々の声をあげたが、新左エ門の母はお寿さんと云ってもと芸者で、新町演舞場の横手で小茶屋をして居ましたのでそこで育った。何かの事情で、母方の祖父の家を継ぐことになったが、その祖父は、林と云って、新町越後町辺に住んで居た大工の頭梁でつた。従って一時はその方面を見習ふ筈であったが、何分体が弱かったのでと、近所が花街町で朝夕三味線の音が聞えて来るし、母親の好みもあり、何時しか心を惹かれて三味線を習ふことになり、豊沢松太郎の弟子となった。松吉と云う名を貰って新町の瓢箪亭で呂太夫の「吃の又平」の三味線に、師匠松太郎の連弾を勤めたのが初舞台で、明治十七年九月の彦六座の改築興行に、師匠の松太郎が五世駒太夫の相三味線として一緒に彦六座に這入り、「三番叟」の団平の三味線に豆くひとして出たのが桧舞台に出た初めである。明治廿一年二月の「忠臣講釈」で松三郎と改名して竹本七五三太夫の惣嫁場の三味線を弾いた。
 その月の八月に近所から出た火の為、彦六座が類焼したので暫く旅に出た。明治廿九年彦六座に再び戻って、春子太夫を弾き、明治三十一年四月、大隅太夫、仙左エ門の推薦で団平師匠から新左エ門の名を貰った。この時の狂言が前が「染分手綱」、中が「志度寺」、切が「伏見里」で大隅団平の「志度寺」春子の「伏見里」を新左エ門が弾いた。その初日に団平が舞台で倒れた事が、この時の様子を道八の話から引くと「さつと吹き来る風につれ、杉の梢にあり\/と現はれ給ふ御姿は、正しく金毘羅権現と、神ならぬ身の白妙には睨み合うたる晴勝負、エイヤツと打合ふ早葉早足」、この合の手で何時になく団平の撥が一寸もつれたが、すぐ立直って、それから一段と激しくなったが、「顔は笑へど胸の中、早せぐりくる断末魔」で突然こつ\/と床板を叩くと三味線をおいてそのまゝ衝立に倒れた。
びっくりした道八が団平の両手を肩にかけて舞台裏へかつぎ込むと、次に出る為、肩衣をつけたまゝ待って居た新左エ門も飛んで行って介抱した。医者の来る迄の応急手当として、足の裏に芥子を塗らうと、「からしを買うて来い\/」と言ふのですが、皆慌てゝしまって、何処へ行ってよいやら、うろ\/して居ると、団平が「玉水、\/」と言ったのが最後の言葉であった。その時まで団平はしっかりと撥を握って居たので、それを離して龍助に代役をして貰ひ、道八や新左エ門がかついで下の弥太夫の楽屋へ入れた。やがて医者が来たが、こゝでは充分手当が出来ぬと云ふので、釣台にのせて、三休橋の深沢病院へ送ることになった。新左エ門は彦六座の提灯をさげて 団平の釣台について行ったが、途中で団平の息は切れた。新左エ門はじめ皆 思はず地べたにへたばってしまった。新左エ門の名を貰った大師匠の団平が新左エ門の襲名興行の 而もその初日に歿くなったのである。新左エ門は最後に脈を見る為に握った団平の腕の暖かみが 何時までも何時までも自分の掌に残ってゐる様に思はれた。
さて新左エ門の三味線は 天性綺麗な、冴えた音で、春子太夫があそこ迄語れたのも 新左エ門が弾いたればこそだとも云はれて居る。春子太夫が死んでからは 文楽へ迎へられ、古靱、錣、呂、住、と弾いたが、どうしたわけか 長く続かなかった。そして晩年は孫の様な若い太夫を弾き、不遇であった。大学の先生が、幼稚園の先生になったのだから、不平もあった事と思はれる。それで楽屋では新左エ門でなく、金左エ門と云ふ綽名を付けられた。表面はその音が金鈴を震はすやうに美しいと云ふ稱譛の名であったが、実は新左エ門の腕自慢を皮肉った綽名であった。うはべは温厚に見えて居ても、それほど自信があったので、口さがない楽屋のものがつけたといふ事である。 (吉永)

 二世豊沢新左エ門が大阪新町の生れであると、前に申上げたが、その後新左エ門の談話筆記といふものを見た処 実は大阪の福島のある旧家の次男と生れたのである。しかし母方の家に相続人がなかったので、その養子に貰はれて行ったのであるといふことが判った。この養家が新町にあったところに、すべての間違ひの因があったのかと思ふ。この機会に訂正しておく。
 この養家が大工の棟梁であったので、幼い頃の新左エ門も亦、大工になる積りであったらしいが、身体が弱かったところへ、新町といふところは、近く華街をひかへて、朝な夕な三味線や太鼓の音が聞えて来るといふところであるから、さうした雰囲気の中で育ったために 遂に音曲で身をたてる志を固めたのである。
 白哲の美男で、床に上って三味線を構へた悠揚せまらない小柄の新左エ門の舞台姿を、私は今も思ひ起こすことが出来る。つゝましやかな掛声で美しい音色を聞かせてくれたが、本人はこの美しい音色を特にお客に聞いてもらはうとするのではなく、音色に色気をもたせて太夫の浄るりを引立てることが、三味線弾きの信條であると、新左エ門自身が語って居る。
 二世春子太夫と組んでゐた頃が、彼の一番華やかな時代であったと思ふが、春子の妙に陰にこもったやうな浄るりに華をそへてゐたのは新左エ門のこうした三味線弾きとしての心構えによるものと思はれる。
 古靱太夫と袂を分ってから、同じ彦六系の太夫である錣太夫の相三味線となったが、新左エ門と比べると大分格の違った錣太夫が豊富な声に任せて、やゝもすれば勝手な浄るりを語って居たが、彼はさうした浄るりとは常に即かず離れずの態度で附合って居た。しかし、肝心のところへ来ると、グッと引締めて正しい軌道に戻してゐたのは、これも亦、三味線の本分を守ってゐたからである。 (大西)

           

 新左エ門が床で使っていた三味線はさほど立派なものではなかったと聞いて居たが、一二三の音がいづれも特別に大きくて、ただ一の音だけは義太夫節の三味線としてはやゝ軽薄な感じがあったやうだが、この音は他に類をみない華やかさをそなへた彼の美しい音色の中心となって居り、それにその音は雄大で而も重厚味があったと、若くして亡くなった義太夫節の研究家 鴻池幸武氏は新左エ門を評して居る。
新左エ門は決して健腕といふ方ではなかった。それでいて、息、間、撥の はげしい修行は彼なりに立派に出来ていたといふことである。今日のやうに麻雀やパチンコといった遊びのなかった彼の若い時代には、今日の目から見ればあるひは幼稚ともみえませうが、芸人は芸に関連した遊びごとが考へられていたやうである。これは新左エ門とは幼な馴染みであった豊沢道八の話であるが、彦六座時代の楽屋では「ハッキリ相撲」といふものが行われていた。おもちゃの土俵を眞中に組んで、その両側へ調子を合はした三味線がおかれる。取組の決まった東西の選手があらはれて、一二三の合図で「テテン」と、ハリキリを打つのである。ハリキリとは三味線の竿のつぎ目の一番頂のところで三の糸を押へて出す音で、この手は多くの語り手に声をはりあげさせるものである。撥は自分のものは使はせてくれるが、三味線は備えつけのもの、しかも調子を合したり、直したりすることは許されない。
ただ一度「テテン」を弾くだけで勝負が決まる。外したらそれまでのもので− これを審査員が聞ひていて「今の誰それのは後の撥が死んでいた」「息がまぬるこかった」などと云って軍配を上げる。これが「ハリキリ相撲」である。当時、松吉といった新左エ門は小松山となのって 友綱とか友千鳥といってゐた道八とがいつも東西の大関の位置を占めていたといふことである。そして、三世団平となった源吉とか仙次郎などは小結になったり、時には前頭に下ったりしたこともあったといはれている。
この新左エ門の松吉は芳太夫、生島太夫などを弾き、また時には七五三太夫を弾いて居たが 明治三十一年四月、三十二才の時に松三郎から新左エ門の二世を襲ぎ、二世竹本春子太夫の相三味線となった。
 このやうにして「ハリキリ相撲」の両大関をつとめた往年の少年選手の一人、道八は理想的な音色の持ち主− 主宝派ともいふべき名手、これに対して新左エ門は空想的な音色のもち主− 情緒派ともいふべき名手にまで成長したのである。誰しも老境に入ると子供のやうに他愛がなくなるもので、新左エ門とて御多分に洩れず、他人からほめられると、こゝが違ふと二の腕を叩いて悦に入っていたといふし、御飯を呼ばれて、この漬けものはおいしおまんなとお愛想をいふと、すぐ、おいしかったら沢山もって帰りやと、台所へいひつけるといふ有様であった。人形芝居の楽屋へは 定めの部屋の、定めの位置には鴨居の上に筆太に細長い紙切れに本人の芸名を記した札が貼られて居る。誰れのいたづらか「豊沢新左エ門」とあるべき札が、いつの間にか「豊沢、金左エ門」といふのと取替えられて居た。楽屋の隠語によく自慢をするものを金太郎と呼ぶさうで− 新左エ門は、金左エ門とこのいたづらの主はうまいこともじったのである。
 新左エ門はどちらかと云へば世話物に長じていたと思ふが、修行の正しさは時代物の中でも、能でいふ幽玄の味ひをもった四段目ものにもすぐれた三味線を聞かせて居た。(大西)

      

(初代新左エ門)
 二世豊沢新左エ門は、豊沢松太郎の門からから出て、新左エ門の名跡を継いだが、この機会に、初代がどんな人であったかを話しておきたい。
 初代は、天保四年(一八三三)の大阪生れで、三世豊沢廣助の弟子となり 初め、松之助と名のる。仙八を経て、安政三年 二十四才の時に、新左エ門と改名した。初め、廣助の系統では、非常に重い名跡である仙左エ門を希望したが、このねがひが叶へられなかったので、本名の新助からとって新左エ門としたと言ふことである。
中古以後で、三味線の音色の美しかったのは、江戸堀の吉兵エ(五世)でまるで金の鈴を振るようだといはれたのであるが初代新左エ門の美しさはそれ以上だったと言ふ。
 鶴沢道八の言葉を借りると、丁度「「結構な蒔絵の美術品」と言った感じで、その上に、眞綿でくるんだやうに工合のよい芸だった。」と 鴻池氏の本にも書かれている。
三世廣助の歿後は、名人団平の預り弟子になったが表面は、至ってのずぼらで おまけに朝寝坊であった。絃の調子を自分から合すと言ふことがなくて、床へ上る前になると、いつも弟子に向って 「三だけ繰っといてや 二はもうえゝで」三とか二とか言ふのは絃の事である。そこで弟子が弾いてみても、よい音色がしない。三味線の皮が猫でなくて犬であったりしたもので− 。
その弟子は、「これでええのかいな」と不安な気持になっていると師匠の新左エ門は一撥か二撥ひいてみただけで、すぐ床へ上るのであるが、舞台からは なんともいへないよい音色が聞えてくるのであった。師匠は、「お前ら、舞台へ出た時しか三味線をひかぬが、わしは二六時中いつでも弾いているのやデ、肚の中で− 」と言っていた。
 この新左エ門が、いつか「妹背山の山の段」が出た時 背山の方は、名人 団平で、自分には妹山の方といふ大役がついた。流石の新左エ門も、この時ばかりは、いつもの野方図ではいられなかったのであらう。清水町の師匠のところへ行き、「お師匠はん こんどの調子は 何本にしませう」と伺ひを立てると団平は、「この前のでゆきましょ」と答へられた。これは団平が、新左エ門のずぼらを知っていて 少々困らせてやらうと言う、皮肉な考へからだったのであらう。此の前と言っても、五年も七年も前の事だったのであるが新左エ門は
「かしこまりました」と其の場をひき下ったが、いよ\/床へ上ると 背山も妹山も 両床ともぴたりと調子が合っていたと言ふ話が伝へられている。 (大西)

          

(二世新左エ門と団平)
 二世新左エ門は、松三郎の名で稲荷座に勤めていたが明治三十一年四月、新左エ門を襲名した。これは、おそらく、初代と親しい間柄であった団平が推薦したものではないかと思ふ。しかし団平は、この四月興行の初日に「志度寺」を弾きながら急逝しているので、狂言の順序としてその次に列べられていた、新左エ門の襲名披露狂言である「伏見の里」は団平には聞いてもらへなかったのである。 (大西)

          

(阿古屋琴責)
 
「阿古屋の琴責」は新左エ門が古靱太夫の相三味線へおさまって間もなかった頃、彼の五十六歳ごろの吹込みであったと記憶している。
「壇浦兜軍記」は享保十七年(一七三二)竹本座で初演されたもので、近松門左エ門の「出世景清」を文耕堂と長谷川千四とによって改作されたものといはれて居る、「阿古屋の琴責」は三段目の口であり、平家の侍大将悪七兵エ景清は壇浦の合戦から姿を消して、頼朝へ仇を報はんとして居る。禁裡守護の代官である秩父庄司次郎重忠は、この景清の行方をさぐるために、彼と契った傾城阿古屋を堀川御所に呼出し、琴、三味線、胡弓を弾かせて、その音色によって、阿古屋が景清の行方を知らぬものであることを覚るといふのがその荒筋である。この「阿古屋琴責の段」が有名で今日でも繰返し上演されているが、「兜軍記」の通し狂言として出ることは殆んどなくなった。
 切場は、こんな筋である。阿古屋の兄、井場十蔵は辻講釈をしながら、母と共に、岡崎のほとりに住んでゐるが、縁によって、景清から、しば\/金を恵まれている十蔵はこの恩を感じて、景清に変装し、自害しようとするが、壇の浦で、錣引で豪勇を競った、箕尾谷四郎が、景清を探して来たので、自ら景清と名のって出る。
 母は自害して、折角許されて帰宅した阿古屋と共に景清の行方を求めて出発させるといふ、三段目らしい構想になって居る。レコードは、阿古屋 五世竹本錣太夫  重忠 二世豊竹古靱太夫  岩永 四世竹本大隅太夫  三味線 二世豊沢新左エ門  ツレ 故鶴沢芳之助(五世弥三郎)  琴胡弓 竹沢団六(六世寛治)

( かもの脛短しといへども− 智仁の勇士と輝やけり)

 このやうに厳しい決断所へ、立兵庫といふ髪に華麗な襠裲姿の傾城が引立てられて来て、しかもこともあろうに、琴や三味線や胡弓といった楽器を責め道具として取調べようとするのである。こうした趣向の奇抜さと、美しい華やかなところに、この浄るりの生命があるのであろう。
 阿古屋の物語りや、三曲の手事がふんだんにあっても、この一段はどこまでも時代物である。時代の中に華やかさも色気もなければならないが、新左エ門の三味線の音締めにその面白さを充分聞きとられたい。次は阿古屋の出のところ。

( 簾をあげて引出す− 気はしほれ)

 この次の合の手から阿古屋の人形が八文字を踏みながら出る。亡くなった先代栄三が阿古屋をつかった時、顎を落して襟へ埋めて出て来た。太夫の道中のやうに正面を切って出る人形が多い中に、これから夫の行方についてお調べをうけようといふ打沈んだ阿古屋になってゐたのがえらかったと思ふ。新左エ門の絃も艶を消した中に美しい音色が聞ける。

( 筒に生けたる− 風情なり)

 岩永は阿古屋に水くらはす用意々々と呼ばはると、奴どもは水桶や梯子、横追を持ち出すので、景清の胤を宿してゐる阿古屋はゾッとするが、重忠はこれを止めて、代りに用意の責め道具といって運ばれたのが、琴などのなまめかしい楽器である。天下の決断所でぼ琴、三味線は岩永ならずとも、神武この方ない途方もないほたへ方とみえるが、重忠の心中には深い計略があったのである。最初には琴を所望する。

( 重忠耳にも入れ給はず− 清しといふも月の縁)

 これは蕗組の唱歌であるが、景清の行方を知らぬといふ阿古屋の眞意を示したものである。この琴の件は今暫くつづく。

( かげ清き名のみにてうつせと袖にやどらず)

景清との馴染めを話すところから。

( 今弾せしは、蕗組の唱歌を− 今更なんとたがやさん)

 次は二上りの三味線曲。
これは、謡曲の「班女」からとったもので、空閨を守る女のかこちごとが唱はれてゐる。文楽の阿古屋の人形がここで襠裲を脱いで、眞赤な胴着姿とる演出がおもしろい、と思ふ。

( 心の天柱ひきしめて− それぞと向ひし人もなし)

 今日の文楽では、時間の関係から、次の「言ひ訳はくらいくらい」から、すぐに「それ胡弓すれ\/」へ飛んで居るが、その間に、重忠の質問に答へて、人目をしのぶ景清がたった一度尋ねて来たことを阿古屋が物語る一節がある。「さらばと言ふ間もない程に」といふところで脱ぎすてた襠裲を拾って、立ち去らうとする景清と、袖を引合ふ振りがあり、文五郎の、つかふ阿古屋の人形が、別れの悲しい心を見せてくれたことがある。

( ヲゝ、もうよいわ、三味線やめい− アゝおはもしとさじうつむく)

 これから胡弓で相の山の一曲を聞かせ、世の移り変りの哀れさを唱ふが、この件は割愛して、重忠が景清の行方を知らぬといふに間違いなしと判決を下すと、敵役の岩永は、何を証拠にと詰めよる。これに答へる重忠の講釈も、今日の文楽では省略されて居るので、この珍しい一節を聞いていただこう。

( ヲゝその仔細、言ふて聞けん。眞面目になるぞ。心地よき) (大西)

         

(新口村)
 
「新口村」は近松原作の「冥途の飛脚」を菅専助、若竹笛躬が改作した「傾城恋飛脚」の下の巻で、お屋敷の為替の金の封印を切った飛脚屋の忠兵エがなじみの女梅川と、廓を抜けて、親里の新口村を訪ねて来るところで、おあつらへの対の衣裳で、雪の新口村にさしかゝる道行風の最初のところは、芝居好きには堪らなく嬉しいところである。

( 落人の...    温められつ、温めつ)

「落人の」の一句など、もっと 艶な節を聴かせてもらひたいところであるが、錣太夫は案外ぶっきら棒にはじめている。しかし、「凍える手先」のあたりの新左エ門の三味線は誠に結構であった。

( 石原道を...  袖にあまりて窓を打つ)

昔なじみの村人が、雪の道を道場参りにいくのを、櫺子窓から忠兵エと梅川が顔を並べて眺めやる情景は好しいものであるが、その中に実の親、弥右エ門の姿を見とめるのである。

( 弥右エ門は老足の...  あくるを、ひきとめ)

世間態を案ずる弥右エ門の心を察して、梅川は機転の面まいをして、忠兵エと対面させる。折しも捕物太鼓が聞えるので、弥右エ門は慌てゝ二人を裏道へ落してやる。追手は別の方向にかけ出すが、二人の跡を見送る弥右エ門に、大きな悲しさが襲つて来る段切になる。

( 弥右エ門は飛び立つ嬉しさ...  涙々の浮世なり) (大西)

           

 大阪淡路町の飛脚宿亀屋の養子忠兵エが、新町の遊女梅川に馴染んで堂島のお屋敷へ届ける為替金三百両の封印を切って梅川を身請し、相携へて忠兵エの故郷、大和の新口村へ駆落する物語である。

( 落人の為かや...    )

「暖められつ暖めつ」で頬被りに黒紋付裾模様の揃ひの衣裳の二人が、やさしく体を肩で押しあってトゝと外すと、互に上と下とできまる美しい姿は、昔栄三と文五郎の名コンビで我々を喜ばせたものである。

( 石原道を足曳の...    )

二人は下男の忠三郎の家に這入って、悲しい身の上を嘆いて居る。雪がちら\/と降る様子に、連子窓から街道筋を見ると、顔見知りの村の人々がやって来る。こゝは人形ではなか\/素朴な中に味のある舞台であるがカットされてすぐ、忠兵エの親孫右エ門の出になる。心から孫右エ門を いたはる梅川、つづいて有名な「大阪を立退いても」の梅川のさわりをお聞き願ひたい。

( 爺御に似た...     )
( 奈良のはたごや...   )

 さて、愈々我が子を裏道から落してやって悄然と去りゆく孫右エ門の血の涙を描いた段切になるが、一回に近松の改作ものを愚作と非難する所謂近松研究家に、この専助の描いた新口村の仕上げを舞台を通して味ひ直して頂きたいものと思ふ。 (吉永)

             

(十種香)
 「二十四孝」は明和三年正月、竹本座で、初演されたもので、近松半二を中心に三好松洛、竹本三郎兵衛などが合作したものである。「十種香」の段は舞台の構想も、筋の運びも半二の得意であった左右対照、並行的展開の様式をとって居る。すなはち、舞台は上杉謙信の御殿、正面は几帳を垂れた瓦燈籠、上手の障子屋体へはこの館の娘八重垣姫が自害した許婚の武田勝頼の姿を描かせた掛図の前に香を焚いて回向をしてゐる。下手の同じ障子屋体には腰元濡衣が勝頼の身替となって相果てた夫蓑作の菩提を弔って居る。こゝへ花作の蓑作といつはって抱へられた本当の勝頼が紅梅襦子の上下へ前髪といふ出立ちで現はれる。この浄るりはこうした情景であたまにおいて鑑賞願ひたい。

( 臥床へゆく水が...     ...思案にふさがる一間には)

ここで上手の屋体に仕掛けた白幕を切って落すと、もじ張りで内部が透けて見える。勝頼の絵像の前で鈴をふる八重垣姫の様子が観音席から見える。姫は緋どんすに 縫ひのある振袖、髪は十能といふもので銀のビラ\/が美しくゆれている。やがて「こなたも同じ松虫が」で 下手の屋台の内部が見えて、濡衣が経机へ蓑作の位牌をかざって鉦を打ってゐる。草柳の縮緬のえどときの着付に髪は島田といふ扮装 − 「広い世界に誰れあって」 ともの言はぬ位牌に呼びかけている間の淋しいメリヤスを新左エ門は美しく聞かせてくれる。

( 館の娘八重垣姫...    ...こんな殿御と添臥しの)

浄るりは独りごとが特にむつかしいと言はれて居るが、この一段は劈頭から二人三様の人物をならべて、それぞれの心境を添へる独りごとを述べさせて居る。こうして三人の人物を、くっきりと浮びあがらせねばならないところに浄るりのむづかしさがあるやうだ。

( 身は姫御前の果報ぞと...      ...流悌こがれ見え給ふ)

やがて濡衣は一間を出でて、夫に生うつしの勝頼の姿に 思はず涙を流すと、八重垣姫も「勝頼様ぢや、ないかいな」と、自分の部屋からかけ出して、すがりつく。

( ハテ滅相な勝頼よばはり...    ...悲しと思ふ勝頼様)

只今のところはなじみの八重垣姫のクドキで「呼ぶは生ある習ひぞや」のところでは 文五郎など絢爛たる役ぶりを見せてくれる。

( そも見給ふてあられうか...    ...縋りついて恨み泣き) (大西)