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名人のおもかげ資料 四世竹本南部太夫

         

使われた音源 (管理人加筆分) 
ニットー 桂川連理柵 帯屋の段 四世竹本南部太夫 八世野澤吉弥
コロンビア 本朝廿四孝 十種香の段 四世竹本南部太夫 八世野澤吉弥
ニットー 加賀見山旧錦絵 鏡山長局の段 四世竹本南部太夫 八世野澤吉弥
ニットー 新版歌祭文 野崎村の段 四世竹本南部太夫 八世野澤吉弥
ニットー 恋女房染分手綱 重の井子別れの段 四世竹本南部太夫 八世野澤吉弥  音源
ニットー 生写朝顔話 朝顔日記大井川の段 四世竹本南部太夫 八世野澤吉弥

放送記録 
230回 昭和26年8月2日 解説:山口 四世竹本南部太夫の「帯屋」と「十種香」
252回 昭和26年9月19日 解説:吉永 四世竹本南部太夫の「重の井子別れ」と「大井川」
334回 昭和27年2月26日 解説:大西 四世竹本南部太夫の「加賀見山」と「野崎村」
       

四世竹本南部太夫は、本名を樋口広太郎。明治二十八年九月、名古屋の生れ。土地で広司といった素人義太夫となっていた。大正六年、二十三才の時、二世鶴沢寛治郎を頼って大阪に出て、三世竹本越路太夫の門人となり、当時の御霊文楽座に出勤。最初は竹本越名太夫といって居りましたが、先代竹本南部太夫の死後昭和五年に四世竹本南部太夫を襲名。特に、若手の太夫のうちでは美声の人として早くから人気を博していた。昭和十一年一月に、竹本つばめ太夫すなはち現在の綱太夫らとゝもに「新義座」を組織して一時、文楽座を脱退したことなどあったが、それも、数年にして再び文楽に復帰し、いよ\/その前途を嘱望されていたところ、終戦直後の昭和二十一年二月三日、五十二才で急逝した。

(南部太夫)
 南部太夫が息を引取った伊賀上野の宅では、七回忌の法會を営まれた筈である。
昭和二十年十一月大阪の朝日会館で南部太夫は「桂川」の帯屋の後半を語ったのが浄るり好きの人々の間では非常な評判であった。ところが、翌二月は四ツ橋文楽座の復興が出来上がりその第一回の記念興行に南部太夫の役は「三番叟」の千歳と「安達原三段目」の前半袖萩祭文を呂太夫(今の若太夫)と一日交替で勤めることになっていた。私は「帯屋」の評判のこともあり、雪のふる中で祭文をうたひながら、不義の勘当の赦りることを願ふ盲の袖萩の哀れな物語を南部太夫によって聞くことを楽しみにして居たが、初日があくと間もなく南部太夫は一日も出勤せず亡くなって了つたのである。
 この興行の総稽古の日突然、南部太夫は気分が悪くなったといって帰宅したが、それが当時流行の脳炎といふ病気ででもあったらうか、終ひに再起出来なかったのである。評判になった「帯屋」が最後になったのである。
 南部太夫は本名を青木廣太郎といったが、師匠の越路太夫から望まれてその夫人の実家の樋口姓を継いだがもし今日まで健在であったら、越路を襲いでいるようなことにもなっていたかも知れない。
 南部太夫は芸事の盛んだった名古屋の出身である。十七、八才のころから土地の宮八といふ師匠について浄るりの稽古を始めまして、広司といふ名で素人義太夫の仲間で浄るりを語って居た。名古屋の株屋で〆ます、という店の主人は非常な浄るり好きで、大阪から来る文楽連のひいきであったから、馴染みの芸人も多かった。広司の南部太夫はこの人の紹介で先代寛治郎を頼って大阪へ出た。本人ははじめ弟子入りしようとしたのは先年亡くなった和泉太夫だったといふことである。
和泉太夫は法善寺の師匠といった二世津太夫の弟子で、序切語りとしては珍らしく眞当な浄るりを語った人であるが、所詮は三段目、四段目語りではなかった。それで南部太夫は当時文楽座の櫓下であった三世越路太夫の弟子となり、越名太夫の名で大序入りをしたのである。
寛治郎の家では「研声会」を組織する人々が集って熱のある稽古をはげんで居た。そのメンバーは今の七五三太夫、綱太夫に亡くなった越登太夫、三味線では喜左エ門藤蔵亡くなった友エ門に綱右エ門といった当時将来の大成を期待されている若手の錚々たる連中で、南部太夫の越名はこの人々の集りへ対して新参者として、苦しい修行に踏み出したのである。「重の井子別れ」の稽古中籐畳の上へ何時間も端坐して泣いたといふ話もあるし、今の綱太夫とは十才も年が違ったのでありますから「こんな小さい子供がこんな浄るりを語るのに、一体自分はどうなるのだろう」と思ふと折角志をたてゝ出て来た大阪に見切りをつけて名古屋へ帰って了ほふとしたといふ話もある。
 しかし、この子供のやうだった綱太夫とは相携へて「新義座」を組織して、浄るり修行の苦難の道を共に歩いて来たのである。この間も、弟子の二世越名太夫が、南部太夫の五世を襲名した披露の口上物で、当の綱太夫は、今新しく南部太夫の相続人の出来たことを、地下の親友も定めし喜んでいてくれることゝ思ふと述べて居た。
先代の未亡人はこの口上を聞きながら、涙を拭いている様子を、私は親しく見て胸のつまる思ひを抱いたものである。(大西)

 四世南部太夫は始めは素人で浄るりを語って居た人で、先代の寛治郎さんが名古屋を巡業して居る時目をつけて。「美しい声の男を見付けて来たぞ」と言って大阪へ連れて帰られた人である。
何時もつゝましく一生懸命に人形の黒子の様な木綿のひっぱりを着て、人形の上手揚幕のはたで語り本を持ってぢっと舞台の太夫さんの浄るりを耳をすまして聴いて居たさうである。綱太夫は九才から此の道に這入って居たので、九つばかりも年上の南部太夫でも綱太夫の下に並べられていた。それが口惜しく如何にも残念だったのであろう。
懸命の努力を續けた。綱太夫が大序組のちょっ口の二つ目から一躍数人飛びこして中程になるとすぐ南部太夫も追っかけるやうに五人抜いて綱太夫の隣りへ並んだ。しかし南部太夫がどう頑張っても綱太夫が抜けず桃井館で南部太夫の越名は口、綱太夫のつばめは奥を語ると云う工合であった。又研声会時代の南部太夫のあだ名は「ごま堂の不動さん」と云った。一段語り終って帰って来ると何時もごまをたいた炎の中の不動さんのやうに眞赤な顔をしていたので口の悪い仲間は又越なにえてるぜ、と悪口をきいたものである。
 この時分南部の越名太夫には越登太夫と言ふ競争相手があった。越登太夫もなか\/美しい声であったので当時耳鼻咽喉科の医者であった加藤透先生がきも入りされて将来有望の若手五人の越登、つばめ、越名、七五三の陸路、清の諸太夫の研声会が出来上がった。そこでこの研声会の人達は方々を巡業に廻ったがその際越名も越登も共に美しい声であるからつばめ太夫が由良之助の時はお軽は何時も越名か越登であった。又つばめ太夫が重忠の時は阿古屋は何時も越登か越名かと言ふ風であった。
 九つも年下のつばめ太夫が研究心が強い上に物覚えが早いので南部太夫は年上の自分が思ふやうに覚えられないのを口惜しがってよく勉強したものである。何時までも年下の者の下に居る事が骨身にしみたのであろう。その上名古屋出身であるから大阪言葉が身についていないのでアクセント等に癖が出るので苦心して居た。耳につくいゝ声であるが、美声を云ふ点では越登の方がまさっていた。南部太夫は腹がうすいがなか\/味のあるいゝ声を出した。
 終戦直前、朝日会館で「帯屋」を語ったが、びっくりする程の出来で我々の間の話題にのぼった。それだのに惜しい事に五十二才の、これから味が出ると言ふところで脆くも亡くなったのは残念である。死ぬ前は特に詞がよくなりどちらかと言へば声を賣りものゝ太夫であったが後半地合より詞にいゝ味が出て来た。表面静かで礼儀正しくいんぎんで、お茶や絵をたしなんでいたが、なか\/きかぬ気の人で、新義座時代帝国ホテルで、した時など盲腸で手術したのに出ると云ってきかないので周囲の人々が止めるのに骨を折ったと云ふ事である。
 又南部太夫は自分は随分とスタートがおくれたと云って猛烈に勉強した。そして競争相手の越登が亡くなると突如として今度は土佐太夫が土佐の国から見付け出して来た伊達の小春太夫が現はれて南部太夫の地位を脅かすかと思はれた。後輩の小春太夫に人気を奪はれまいと南部太夫は静かに頑張ったのである。酒はあまり飲まなかったがその代り随分と食べた。それで一時は胃腸を患って湯川病院へにゅういんした事もある。
 口下手で云ひたい事があってもしゃべれない人で何時も沈黙を守って居た。新義座時代でも「南部さんどうですか」と云っても結構ですとかしこまるだけであった。
 晩年の南部太夫にとっては今の喜左エ門は恩人である。喜左エ門は熱情家の上に若手の養成には重宝な人で、よく情熱を傾けて指導に当り我を忘れ時間を忘れて稽古する人であった。南部の越名太夫が大序の時に野沢喜左エ門さんの勝平は半沢でばり\/の三味線弾きであったので、つばめ太夫も越名太夫もちり\/して居た。南部太夫はこの喜左エ門には何時もぼろくそにやっつけられていた。研声会時代の事であるが南部の越名太夫は一寸美声の色男であったから騒がれた。山口に行った時土地の美人の所に外泊した翌朝帰って来たと喜左エ門は三味線を持って待ち構えていて。「昨日のあれはいかんさあ稽古しよう」と云はれて流石の南部太夫も稽古の事であるから嫌とも云へず大いに弱られたそうである。(吉永)

南部太夫は、その逝くなる前年あたりから、語り口が、特に冴え返ってよくなって居た。
例へば、その死の前年乃至前々年に語りました朝顔の「宿屋」とか、伊勢音頭の「油屋」それに、これこそ最後の舞台になった昭和二十年十一月の大阪朝日会館における、お半長右エ門の「帯屋」など、いづれも、特に立派な出来で、当時、その出来栄えに一驚していたほどだったが、さうした非常な進境を示して来たと思ったトタンに、ポックリと逝くなったのである。芸の人はよく死の直前に、あたかも、その死を予言するかのやうに、急に芸の筋が拓けて来る。急に冴え返ってよくなって来るといった奇蹟めいたことがあるが南部の死も、そのたぐひで、勿論、それは単なる偶然だったのかも知れないが、とにかく、この人も、死ぬ少し前あたりから、特に、よくなって居た。
 余談はさておきまして、この南部太夫は、声の美しい、いはゆる美声の太夫として知られていた。その点では先輩の土佐太夫や駒太夫に続く人であった。しかし、南部太夫の声柄をよくよく吟味してみると、必づしも、いはゆる美声でない。むしろ美声といふよりも、感じのよい声、非常に耳ざはりのいゝ声だったといふ方が当っていたと思ふ。単に、美声といふ段では、むしろ、現在の松太夫あたりの方が美声かも知れないが、取り立てゝいふほど美声ではなくとも、どっか聞いていて気持のよい、感じのよい、耳ざはりのなめらかな声だった。それがこの人の芸の魅力であり、芸の身上だったわけである。
 もっとも強ひて、アラを探せば、ハラの薄かったこと、いひかへれば、声にどっか量感が足りなくて、肚の底から迫って来る力に、いさゝか不足があった。そのため、時代物の三段目系統のどっしりとしたものなどは語れなかったが、そのかはり、声に幅もあり、音遣ひも比較的よく利く方で、一口にいって味のあるうまい浄瑠璃を聞かせた人である。
 かういった持味の人であったので、やはり艶物がたりだったといへるわけで、先ず世話物では「酒屋」とか「野崎」とか三十三間堂の「平太郎住家」とか「明烏」とか、朝顔の「宿屋」とか、時代物では「先代」の御殿とか中将姫の「雪責め」とか、「十種香」といったところが、口に合ふ語りものであった。(山口)

(帯屋)
「帯屋」の最後のところ、お半の出から段切れまでお聞かせするが、これは南部太夫の最後の語りものとなった因縁の深い演しものである。
 もっとも このレコードの吹き込みは 三味線を野沢吉弥が弾いてゐるところから考へても、恐らく昭和十年ごろの吹き込みであろうと思はれる。
三味線の野沢吉弥は既に長く文楽座からは引退されて居るが、なほ大変お元気で、現在も大阪で素人のお稽古を続けて居られる。
 吉弥の三味線は、どちらかといへば やはらかい糸である。凝りと凝ったといふやうな力のある三味線ではないが、そのかはり極く素直な、綺麗なやはらかい三味線である。その点で、やはり三段目風でなく、世話物畑の三味線であり、南部の芸風とよくマッチしてゐるともいへやう。
 説明が前後するが、お半最初の出の「同じ思ひを信濃屋の」といふところは繁太夫節であり、それから長右エ門が、お半の書置きを読むせっぱ詰った気持へ 奥の間での繁斉のお経の声をあしらってゐるところなど 技巧としても一つの聞かせどころである。これで帯屋を終る。
 この南部太夫は人間としても極く控え目の おだやかな人柄で、酒もあまり嗜まなかったやうである。この「帯屋」の長右エ門など、丁度、その律儀な感じが、南部自身の人柄からにじみ出てゐるやうなところがあって よく語れて居ると思ふ。(山口)

(十種香)
「十種香」も生前南部のよく出してゐたオハコの語りものであるが、最初の八重垣姫の地合のカカリ「こんな殿御と添ひ臥しの」のあたりを少し聞いていただこう。三味線は野沢吉弥である。
 この八重垣姫の地合などは 少し皮肉にいふと 美しいガラス瓶の中で、金魚がユラ\/と泳いでゐるやうな、さういった清らかな美しい感じに聞えねばいけないと いはれてゐるものであるが、南部の「姫御前の果報ぞと」とか「絵には書かせはせぬものを」などの少し鼻にかゝったやうな調子や 音遣ひなど、耳ざわりのいゝ感じのよい この人の声の長所をよく発揮してゐるやうである。(山口)

(長局)
(何心なく勝手口...   ...お顔もちも悪い故)

 主人の心中を充分察してゐるお初は もしこの手紙をもつて出た留守の間に万一のことでもあってはと案じて居る。その志を知り乍ら わざと叱って使ひに出さうとする尾上、この二人の詞のとりやりはこの浄るりの面白いところである。
(イヤ、癪気はもう直った...   ...馴染みもないこの私を大切に)

 これからのところに「さぞやとつかは戻って来て嘆かんことの不愍や」といふところがあるが、山城少掾得意の浄るりで、こゝなど誠に巧みに語られるが、若い頃の南部太夫としては、その身分に応じた出来かと思ふ。

(大恩受けた主人ぢゃと...   ...前後不覚になげきしが)
「長局」はこの惜しいところで終って居る。(大西)

(野崎村)
お染が久松を訪ねて来て 義理立てする男に、突きつめた女の切ない恋心をぶちまけるところからである。
(久作ももてあつかひ...  ...あんまり逢ひたさ懐しさ)
 
 こゝで一寸、文楽の人形の衣裳について話すと、久松は欝金の布子であるが、いかにも大店の厳しいしつけを受けた清潔なうぶな丁稚といったところを表はして居るのに、お染のの方はこれに反して薬玉かなんか豪奢な模様を染出した友禅もの、この二人の色彩の対照 この色彩の中に繰りひろげられる色模様が面白いと思ふ。このレコードを吹込んだ時代の南部太夫には晩年に冴えを見せたよさがまだ出てゐないのが残念だと思ふ。

(勿体ないと云ひながら...  ...晴れ間は更になかりけり)(大西)

(重の井子別れ)
「重の井子別れ」は、竹本三郎兵エ、即ち人形遣の名人、吉田文三郎が作った「恋女房染分手綱」の十段目に当るので俗に「恋十」とも「三吉愁の段」とも云はれている。
 天皇陛下が終戦後文楽で天覧されたのもこの「重の井子別れ」でこの時床は山城少掾と、清六、人形は文五郎の重の井、玉五郎の三吉と云ふ顔ぶれであった。この「重の井子別れ」の所は、近松門左衛門の「丹波与作待夜の小室節」と云ふ作品の上の巻をそっくりそのまゝ利用して居るので舞台上の近松の作品を研究するには何よりのものである。
 丹波の城主、由畄木家の家老の倅、伊達の与作は腰元の重の井と人しれず恋を語らふやうになり与之助と云ふ子さへ設ける。この不義が現はれて与作はお家追放となり馬方にまでなり下る。重の井は我が子の与之助を里子にやり再び帰参して姫君のお乳の人となるが、その姫君は今関東の高家入間家と縁が調ひいよ\/出発と云ふことになる。一方与之助は育ての乳母も死に馬方になって居り、偶然にも通し馬方として此の輿入れの一行について行く事になったが、東下りは嫌だとむづかり給ふ姫の御機嫌を面白い双六を打って直したので重の井は大変よろこぶ。ところがはからずも、それがもとで重の井は自分の母親だとわかり、三吉は「母様」と取りすがる。事の意外におどろく重の井も、三吉から身の上話をきかされ証拠の守り袋まで見せられると、も早や、うたがひもない吾が子の与之助である。しかし親子の名のりはしたいが馬方が姫君の乳兄弟とわかってはこの目出度い姫君の縁組にどのような邪魔にならうかと、心を鬼にして別れると云う筋である。
(男の子は幼うても...  )

 こゝで現在の文楽の舞台では母は思ひきっていとしい我が子を突きやり、ずっと立屏風に姿をかくす。三吉はつきやられてよろ\/と地面に倒れて腹這ふ。やがて泣きながら立上って去りゆく我が子三吉の姿を重の井は再び屏風のかげから身をのり出してもう一度こちら向いて顔みせてくれと泣きくずれる。
(頬かぶりして...   )

 近松の原作では 三吉は与作にたのまれて盗みをしたり、果ては人を殺す不良少年であるが、「恋女房染分手綱」ではどこまでも可愛いい三吉を表現して行く。泣く\/三吉は、「坂は照る\/鈴鹿は曇る」と馬子唄を歌ふ。こゝらが南部太夫の美しい声をたのしめるところである。舞台では重の井が懐鏡をとり出して泣き顔をつくろってゐるが、その鏡に三吉の姿がうつり、思はず鏡に吸ひ込まれ、立上って次第に鏡を高く上げて鏡の中の姿を見つめる。かすかに打掛けを持った右手震へる。浄るりも人形も感激の最高潮に達するところである。
(こりやそこな自然著め...  )(吉永)

(朝顔)
云ひかはした恋人、駒沢次郎左エ門のあとを慕うて盲目の朝顔が雨中の大井川の川岸に、狂気のやうにかけつけるところである。
(夫に慕ふ念力に...  )

 舞台では 大井川の道標に抱きついて 「夫のあとを恋ひ慕ひ石になったる松浦がた ひれふる山の悲しみも」と伸び上る人形遣の朝顔を片手左遣ひする。やんやと拍手の来る所である。
(思へばこの身は...   )(吉永)