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昭和21年8月 四ツ橋文楽座興行 安宅関 勧進帳の段 番卒にて、古住太夫初舞台

                   


特集31 編集後記

 住大夫師引退の報は、さすがにショックであった。

 今からちょうど69年前の昭和20年3月13日夜に始まった大阪の空襲により、四ツ橋文楽座は街と共に烏有に帰してしまったが、翌年2月に関西の他の劇場に先がけて再建開場した。そしてその年、二代古靱太夫に入門していた古住太夫(現・住大夫師)が、再興した文楽座で初舞台を迎えた。

 復興期には、いい事も悪い事も時代の変化と共に押し寄せた。22年に天覧文楽。24年に文楽は分裂し、三和会へ参加。三和会では、過酷な環境での巡業、その中での修業と裏方仕事や人形の手伝いなど何でもこなす日々・・・今の恵まれた平成の世では、ありえない実戦でのたたき上げ。35年嫩会にて九代文字大夫襲名。38年両派合併と文楽協会発足。やっと59年に本拠地の国立文楽劇場開場。60年七代住大夫襲名。そんな大変な道のりなど感じさせない。住大夫師で印象的だったのは、テレビの文楽入門で見せたにこやかな解説である。近年では、上田村、笑い薬、帯屋、沼津などの名演を思い出すが、素浄瑠璃の会では、いつかは聴けなくなると、不謹慎ながら、今日の日のことを想像したこともあった。

 現実は想像を超えていた。3年前に日本中の人を揺さぶった未曽有の大震災。その後、浮上した大阪の補助金問題では異様な空気の中、文楽の顔として行政と対峙せざるを得ない状況であった。さらに突然の病で、高齢でのリハビリのしんどさはいかばかりであろう。それでも、前を向いて再び舞台へ戻ってこられ、義太夫節三百年の歴史を繋げている。文楽を背負って粛々と進む姿に、あるべき平成期最高位の太夫像を見せていただいた。最後の公演では、心からお疲れさまでした。そして、まだまだ文楽の事を教えてくださいとお願いしたい。一方、歴史は繰り返してほしい。若い太夫が、いつの日かまた名人の域へ到達することを願わずにはいられない。

 引き続き特集は、「名人のおもかげ資料」の補足を中心に企画を検討中です。今後とも宜しくお願い致します。

参考: 文楽興行記録昭和篇(私家版)、今日の文楽(岩波書店)  

2014. 3. 13 大枝山人