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名人のおもかげ資料 三世竹本津太夫

          

使われた音源 (管理人加筆分)
コロンビア 伊賀越道中双六 沼津の段 三世竹本津太夫 六世鶴沢友治郎
ニッポノホン 心中天網島 河庄の段 三世竹本津太夫 六世鶴沢友治郎
ニッポノホン ひらがな盛衰記 逆櫓の段 三世竹本津太夫 六世鶴沢友治郎
ニッポノホン 傾城反魂香 将監閑居の段 三世竹本津太夫 六世鶴沢友治郎
コロンビア 義経千本桜 すしやの段 三世竹本津太夫 六世鶴沢友治郎     音源
コロンビア 仮名手本忠臣蔵 勘平切腹の段 三世竹本津太夫 六世鶴沢友治郎  部分音源
コロンビア 近頃河原の達引 堀川の段 三世竹本津太夫 六世鶴沢友治郎
コロンビア 菅原伝授手習鑑 寺子屋の段 三世竹本津太夫 四世鶴沢叶     部分音源
コロンビア 絵本太功記 尼ヶ崎の段 三世竹本津太夫 六世鶴沢友治郎     部分音源
ニッポノホン 一谷嫩軍記 熊谷陣屋の段 三世竹本津太夫 六世鶴沢友治郎   音源
ニッポノホン 源平布引滝 鳥羽離宮の段 三世竹本津太夫 六世鶴沢友治郎
キング 御所桜堀川夜討 弁慶上使の段  三世竹本津太夫 四世鶴沢綱造

             

放送記録
2回 昭和25年3月7日 解説:大西 三世竹本津太夫の「沼津」(1)
19回 昭和25年4月10日 解説:大西、(四世竹本)津太夫 三世竹本津太夫の「沼津」(2)
22回 昭和25年4月18日 解説:大西 三世竹本津太夫の「沼津」(3)
64回 昭和25年7月26日 解説:安原 三世竹本津太夫の「紙治」と「河庄」
 昭和25年8月16日 解説:三世竹本津太夫の「逆ろ」
92回 昭和25年10月24日 解説:大西 三世竹本津太夫の「吃又」
114回 昭和25年12月5日 解説:安原 三世竹本津太夫の「すしや」
175回 昭和26年3月9日 解説:高安 三世竹本津太夫の「堀川」(1)
183回 昭和26年4月3日 解説:安原 三世竹本津太夫の「尼崎」(1)
184回 昭和26年4月4日 解説:安原 三世竹本津太夫の「尼崎」(2)
188回 昭和26年4月19日 解説:高安 三世竹本津太夫の「堀川」(2)
202回 昭和26年6月4日 解説:安原 三世竹本津太夫の「尼崎」(3)
228回 昭和26年7月30日 解説:高安 三世竹本津太夫の「堀川」(3)
266回 昭和26年10月23日 解説:大西 三世竹本津太夫の「熊谷」と「布四」
272回 昭和26年11月14日 解説:安原 三世竹本津太夫の「寺子屋」(1)
275回 昭和26年11月21日 解説:安原 三世竹本津太夫の「寺子屋」(2)
272回 昭和26年11月26日 解説:安原 三世竹本津太夫の「寺子屋」(3)
323回 昭和27年2月11日 解説:安原 三世竹本津太夫の「沼津」
362回 昭和27年4月15日 解説:升屋 三世竹本津太夫の「逆櫓」
375回 昭和27年5月15日 解説:吉永 三世竹本津太夫の「すしや」
377回 昭和27年5月22日 解説:大西 三世竹本津太夫の「忠六」
420回 昭和27年8月25日 解説:木村 三世竹本津太夫の「御所三」と「堀川」
466回 昭和28年1月18日 解説:安原 三世竹本津太夫と六世鶴沢友治郎の「沼津」
471回 昭和28年2月22日 解説:木村 三世竹本津太夫の「太十」
501回 昭和28年10月4日 解説:木村 三世竹本津太夫の「すしや」

              

(略歴)
三世竹本津太夫は本名村上甚吉。村上卯之吉。明治二年 福岡県の香春町に生れ、浄瑠璃好きの家庭に育ちましたが、明治十年九才の時博多の豊沢栄二郎に手ほどきをうけ、祖父の手で九州地方を巡業して居た大阪の女義太夫竹本綱尾に伴われて、十三才の時 祖父と共に大阪へ出ました。はじめ浜子太夫と名乗りましたのは、一時竹本浜太夫の預り弟子となってゐたからで、後 法善寺の師匠と呼ばれた二世竹本津太夫に正式入門、文楽座の大序を語るやうになりましたのは 彼の十七才の時でありまして、明治二十三年(一説に十九年)には文太夫と改名、更に明治四十四年師匠津太夫の三世を襲ひ大正十三年五月には三世竹本越路太夫の後をうけて文楽座の紋下に坐りました。亡くなりましたのは昭和十六年五月(一説に四月)で彼の七十三才の時でありました。

          

(津太夫といふ名跡)
津太夫といふ名跡は、竹本越前大掾となった五世染太夫を初代とする染太夫の系統と、三世綱太夫の系統との二つがある。此の綱太夫は 享保から天保年間(一八〇一〜一八三一)にかけて 名人と謳はれた人で、今日に於ても、綱太夫といふ一流を残して居る。
三世綱太夫の弟子に 竹本幡龍軒といふ素人上りの太夫があったが、これが京都の御所御出入りの小鳥屋で、やはり幡龍軒といった素義で鳴らした人の子であった。
綱太夫の先代(二世)が、津の国屋と云ったところから、その「津」の字をとって津太夫といふ名を起したといはれて居る。
その子供で、はじめ緑太夫といったのが二世津太夫を襲いだ。此の二世も父と同じように、三世綱太夫の門人で、山四郎と云った人の弟子、山四郎は後に受領して山城掾といったが、「日本第一滑稽物語」といふ看板をかゝげて滑稽浄るりを語った。 (大西)

さて二世津太夫は明治九年、大阪へ下って文楽座に入り、摂津大掾の越路太夫の紋下に対して 永く庵の位置を保った人で、一時紋下をつとめたこともある。千日前の法善寺に掛茶屋を営んで居たから、法善寺の師匠とも呼ばれておる。「二十四孝」なれば、三段目の勘助物語も語れば、四段目の十種香も語れるといふ、何でも出来た太夫と聞いて居るが大掾の絢爛たる芸風に対して「鰻谷」「天王寺村」「沼津」「堀川」などと云ふ渋い狂言を出し物にしてゐたが、なか\/上品な語り口だったさうだ。

          

(津太夫)
三世竹本津太夫はこの法善寺の弟子で、今日の文楽の山城少掾とは相門である。紋下披露に語った「熊谷陣屋」や「太十」のやうな大きな時代物のほかにも「沼津」「鎌腹」「吃又」のやうな世話時代、それから「河庄」「帯屋」などの真世話ものといった具合に、誠に芸の幅の広い太夫であったが、巧緻といふよりも、時に不器用ともみえるところに 古淡な味はひがあって、語り込んでゆくと、底の知れない力強い浄るりになるといふ熱のある太夫であった。(大西)

名人はらはら屋の呂太夫の急死に依って その代役を当時名人と称せられていた勝鳳の三味線でつとめ 一躍認められ確固たる地位を得ました。
切語りに進んだのは二十七才のときである。
名人芸と申しても数ある中に 此の三世竹本津太夫の沼津の様な名品は尠いだらう。この沼津は一般全部レコードとして残ってゐる。
此の三世津太夫は今の四世津太夫のお父さんである。此の三世津太夫は大正十三年から昭和十六年まで十七年間、文楽座の紋下として、熱と力で押し切った太夫である。人間は至って朴とつ、少しも芸人らしい処がなくて どちらかと云へば野暮くさい人であった。生一本で、好人物で 声も決して好いと云ふ事は出来ないが、芸風はどちらかと云へば派手な方で、それに津太夫独特の熱演は 聞いたあとへ何かしら残るものがあった。芸そのものには好い処もあり、又悪いところもあり、まあ「むら」のある方だが、堪らない程惹きつける魅力があって、聞いてゐて得心する処があった。又得意な語り物は図抜けて好い代りに、物に依っては感心出来ぬものもあった。「沼津」とか「弥作の鎌腹」とかは 得意中の得意の語り物で 絶対に他人の追従を許さぬ独特のものであった。まあ津太夫の人物が語り物の人物に溶け込んでゐたのであらう。(安原)

津太夫は世間の事にうとい人で浄るり以外は何にも知らない人で、こんな話がある。今の大隅太夫と一緒に大正十四年十二月鹿児島へ旅興行に行った事がある。其の時 汽車の中で食事をする事になり 一同食堂へ出かけた。津太夫は此の時カレーライスを誂らへた。やがてボーイが「ライスカレーお待ち遠う様」と持って来たが 津太夫は「ライスカレーではない私はカレーライスを注文したのだ。」とボーイに大きな声でどなった。大隅太夫始め 一同腹のよじれる程おかしがったが 本人真面目にボーイが何度カレーライスとライスカレーとは同じものですと云っても 皿を見もしないで「違ふ」と頑張って居た。すべて 此の道の人は 山城少掾の堅法華、鶴沢道八の大本教、相生太夫の金光教と信仰家が多いが、この津太夫は若い時から、生駒の聖天さんを信心して 毎月一日と十五日とには 弟子を連れてお参りをした。そして弟子がしんどさうに坂を登る姿を見ると「昔の人は大阪から歩いてお詣りしたものや。名人団平さん等は 文楽が終ってから歩いてお参りをして寒中水垢離をして 神前で三味線を弾いて修業せられたものだ。」と云ひ聞かしていた。
この津太夫の弟子の文太夫は、なか\/の大酒呑で酒の為にちょい\/しくじり、津太夫に叱られてしばらく文楽に出られなかったが、やっとの思ひで許された。其時 津太夫は 一緒に又生駒の聖天さんへお詣りをし、神前で「わしはお前が帰参の叶った日から聖天さんにちかって 酒を断った故、お前も 今日限り酒を断て、一滴も飲む事ならん」と誓はされ、弟子だけでは可哀さうだと、自分も一緒に酒も煙草も絶つと云ふ 思ひやりがありました。

昭和十六年四月興行で息子の現津太夫 その時の津の子が前年無事帰還し、自分の前名浜太夫の名跡をつぐ事になったので その前途を祝福する意味で、妹背山婦女庭訓の山の段の掛合に大判事を自分が語り、久我之助を浜太夫、又定高を古靱、今の山城少掾、雛鳥を南部太夫の役割で華々しく出演する事になり、津太夫は愛児の此の晴の襲名に出ることを喜んで稽古して居たが、不幸病気になり 到頭その興行中に出勤も出来ず死んだが 本人は 誠に心残りであったらうと思はれる。然しなか\/しっかりした人だけに 自分は死ぬとは思って居なかった。前日まで 「大分良くなった 必ず癒る。」と弟子達に云ひ、又九州からかけつけた弟の村上恒一さんが 「人の命といふものは 何時どうなるかわからぬから 云って置く方がよい」と云はれると 津太夫は「お前の方が常々弱いくせに阿呆らしい、お前こそ わしに云ひ残しておけ」と云って死ぬなどとは少しも思はず きっと全快すると堅く信じて居た。私共も津太夫の代りに 大隅が代役して語る妹背山の舞台を眺め乍ら 津太夫の心を思ひ 子供の浜太夫の心中を察して、心から同情を寄せてゐた。しかし 山城少掾よりも幸福な人ではないだらうが、昨今津太夫は義父寛治郎の三味線で めき\/と良くなり 観客席から老人達がおとっつあんそっくりになって来たと私語くのを聞く時、地下の津太夫はどのやうに思って居るだらうか。(吉永)

         

(津太夫の語り口)
この津太夫といふ人は「一谷嫩軍記」の熊谷陣屋や「絵本太功記」十段目の尼崎などといふ大時代物に豪快な語り口を聞かせた人で、また一面に「沼津」や「鎌腹」や「吃又」のやうな時代がかった世話物や「河庄」「帯屋」などのやうな真世話物−純粋な世話物にも特別な味を生かした太夫であった。(大西)

津太夫の「沼津」は豊竹山城少掾の語る「熊谷陣屋」とは対照的に二人の特徴を一番よく現してゐる語りものといはれて居るが、「沼津」は素朴なうちによい情味を出してゐる。「伊賀越」は近松半二、近松加外の合作で 今からザッと二百年前、天明三年四月、竹本座で初演された。
荒木又右エ門の伊賀の上野の実説を骨子に、巧みに脚色されたもので、全編十段のうち、この「沼津」は六つ目に当る。平作といふ年老いた貧しい街道筋の雲助が通りがかりの商人、呉服屋十兵エの荷物を擔いで 生爪をはがすやうな大怪我をしたために、貴重な薬をつけてもらって傷の痛みが癒る発端から、十兵エは幼い頃鎌倉へ養子へやられた平作の実子であることが判り、その上に薬の印籠から十兵エにとっては実の妹であるお米の夫、和田志津馬の探し求める澤井股五郎の行方を知ってゐることを知る。平作は腹を切って その行方を知らせてくれと迫るが、十兵エは親の苦喪を察して「落ち行く先は九州相良」とあの有名な台詞で股五郎の行方を聞かせる段切まで、親と子の細やかな人情のからみあった波乱の多い聞きものである。この浄るりは賑やかなツレ弾きに始って、「東路にこゝも名高き」の語尾の「き」から「イゝゝゝゝ」と変化して行くところをこの道では産み地と申しますが、この「イゝゝゝゝ」とたどって行く節の数が五十三あって 東海道五十三次をあらはしてゐるといはれるが、節の数はとも角も、遙々と東海道を上って来る感覚をあらはしている。「富士見白酒名物を」 以下は街道筋の風物を描いた一篇の詩であろう。

 (東路に 爰も)

このところは人形の舞台では、浅黄幕がおりているが、次にある「蜘蛛の習ひと」で 柝が入って幕がおりると 松並木の舞台となる。「稲村蔭より」から平作の出。「旦那もうし、お泊りまで参りませうかい」の詞で、平作といふ人物なり、境界なりを充分に出さねばならない。総て浄るりでは人物の最初の出が肝腎で、その人物をお客に充分印象づけておく必要がある。津太夫の平作は この詞で平作になりきってゐる。

 (おかごやろかい参らうか...... )

平作の危っかしい足許は「木の根につまづきひょろ\/」でつまずいて怪我をするが、こゝの三味線に、その情景を聞かせる面白い手がついている。そして十兵エが薬をつけてやって「なんと親爺どん 傷の痛みは止ろうがの、コレは結構なお薬でござります。痛みはとんと癒りました」の二人のやりとりはいかにも世話ものらしい面白さを出すところだが、このレコードで聞くだけでは 津太夫としては歯がゆいやうな芸だと感じられる。

 (旦那申、向ふの立場に...... 大概乱れかゝつて居ますわい、アハ... ハ... )

このところでこの浄瑠璃が 普通の浄るりと一種異った軽快な面白い間と足取りを持ってゐることにお気がつかれるであろう。それは初演の際この件を語った太夫が、竹本男徳斉 − 即ち一世竹本咲太夫といふチャリ −滑稽なものを得意とした太夫であったので、その太夫の風格なり特徴が今日まで伝へられてゐるものである。自分の担ぐべき荷物をお客にかつがせて、いかにもバツの悪さうにヨボ\/と平作がついて行く件り、「こごしかがめて」のあたりの節付はこの情景を目の当りに見るやうである。「松蔭に伴ひ」の段の三味線をオクリといって、こゝで舞台は平作の内にかはる。

 (道の伽する笑い草、どうやら爰に根が生へた。大事無くばいっそ泊めて貰ふかいと。)

「沼津」の前半は男徳斉の風であるが、「およねは一人物思ひ」からは浄るりの中興の名人一世竹本染太夫の語った処で、西風即ち竹本座系統の地味な重要な語りになって、前半とはガラリと調子が変る。
「お米は一人物思ひ」からは浄瑠璃の中興の祖と云はれてゐる初代竹本染太夫の語ったところで、染太夫は地合、詞は共にサラリとした中に産地(語尾から生れる母音)の運びの名人で、最も深刻な人情を語り生かした太夫とのこと、前の小揚げのところはチャリ語りの名人だった竹本男徳斉の役場であっから「お米は一人」からガラリと気分が変る。
 この次の「恥しながら聞いて下さりませ」以下はお米のサワリ。このサワリは一般にサワリと云って親しまれている様な美しい節ではない。それは眞西風 − 純粋な竹本座系統のもので、ここで染太夫の特徴が最もよく漂ってゐると云はれてゐる。津太夫の声は決してよい声ではなく、どちらかと云へば晦澁な点の多い浄瑠璃であったが、語り込んでくると不思議にな程特別な味が滲み出る人であった。このサワリを聞いてゐるとそれがよく判る。浄瑠璃道では痰の声といふものがあって、これを巧く利用すると、うるほひのある色気のある声が出るといはれている。

 (印篭とりあげ......お年寄られしお前に迄)

津太夫のサワリは山城少掾のサワリと比較すると、少し違ってゐる。例へば 「あの妙薬をどうがな」といふところ、そして「翌の夜は」といふところなどである。津太夫のが、昔からの文楽のもので、山城少掾のものは先代清六の指導をうけられたので、團平系統の影があるのではないかと思はれる。次の十兵衛が別れて行くところで「コレ姉御」とお米を呼び出して「随分ともに孝行にさんせや」といふのは昔からある入れ事で、歌舞伎の吉右エ門などのやる「人間万事芭蕉葉の」といふあれ式である。
山城少掾の「沼津」には、このような入れ事は一切ない。千本松原になってから「モウ御臨終でござりますぞへ、御念佛を申されませ」のあたりも、原作にはない。津太夫が急病の時、代役をしたある太夫さんが、父の本で床へ上った所、その個所が、本に無かったそうで、大狼狽てに狼狽したのを津太夫が可笑がってみたのを覚えてゐる。津太夫はそれを記憶だけで語ってゐたらしい。

 (嘆きのはしばし お米は印篭))

父はよくこう申していた。浄るりは人間の義理人情の葛藤を語り分けるものだから、人間の苦労をなめたものでないと語られるものではない。素人の中でも、遥かに多くの苦労を経験してゐる者が語ると、この人情がしみじみと味へるものである。そう云ふ点を見習はねばならない。
平作の追駈までが本当の三段目で、染太夫の風格を辿るといふ難かしいものであるが、千本松原、平作腹切になると、サラサラと、芸の高いところに無限の人情が漂ふように語りすてるといふのが口伝である。然しそれも本当の端場なり、落合− 一段の結末をつけるところ −から修行をして来た太夫でなくては決して語れるものでもなく真似も出来ないところであろう。
これはしっとりとした秋の夜深かの千本松原で、こゝではもう十兵衛が幼い頃に養子にやった実子の平三郎であることを知った平作が、印篭を持って、どうでも探し求める股五郎の行方を聞こうと追付く。平作の「おーい\/」の呼び声の聞こえるところは本文には何の指定もないが、頬冠りをして笠をかざした十兵衛がふり返りもせず、ただ足の運びをおそくして行く間の腹構えが先年亡くなった初代栄三がよかった。

 (慕ひ行く。実に人心様々に、...... コレ申旦那様。と血筋と義理と道分石)

これからは人情にからんで股五郎の行方を聞かせてくれと迫る平作に対して、筋道の通った道理を説いて「持主のしれないままの印篭の薬で傷養生せよ」と云ふ十兵衛との会話が聞きどころである。「まさかの時に切先が鈍らうぞや」と強く押して時代にじって、すぐ「やっぱり拾うた薬にして」とガラリと世話に砕けた調子になるが、こうした詞のやりとりの変化が面白いところである。
人形ではこの「切先が鈍らうぞや」で十兵衛が自分の脇差に、平作の手を触れさせる。が、後に平作が「旦那様おさらば」とさぐり寄つて脇差を抜きとるキッカケになっている。そしてこの平作の「おさらば」は我が子に呼びかける最後の詞で、低い詞ではあるが、そこには深い感情が篭あられて居ると共に、又死を決した鋭い影がひらめいてゐるのを聞きのがすことは出来ない。

 (コレ\/此上の情には、平作の未来の土産に、敵の在家を聞かして下されいの)

これから「今死ぬる者に遠慮はあるまい」で雨が降って来た心で十兵衛は立身で、平作の上に笠を差しかけてやるのは、よく絵に描かれてゐる。情愛の深いところである。そして有名な「落ち行く先は九州相良」といふところは下手に忍んでゐるお米と孫八に聞かす様に云って「世人の噂」は平作の耳もとに口を寄せて聞かす心で語る。「アレ聞いたか」と平作は嬉しさの余り思はず口走るが、十兵エはあわてて平作の上に笠を掩う

 (外に聞くものは誰も無い......  ......親子一世の逢ひ初めの逢ひ納め)

「逢ひ初めの逢ひ納め」で十兵衛は初めて手負ひの親をしっかと抱きかゝへる。太夫も充分の力を以て語っている。次の「いまが親仁様の御臨終」とか「親仁様お念佛をおっしゃりませ」などは本文にない入れことである。津太夫の平作は理屈を抜きにして平作と云ふ人物になり切ってゐるので面白く聞かれる。平作の断末魔の「なまいだ\/」はこの世の息を引く最後の呼吸であるから、ただ吐く息ばかりで云ふといふ口伝がある。 (大西)

東洛の処、これを此の道では小揚という。此の弾出しは本調子で出るが、これには二通りの弾き方がある。それは三味線の糸の二から弾出す方で「トロンチ、チリンチ」と弾きます此の方が古い型だとも聞いて居る。今一つは三が出る方「チン、チリンチ」と弾く方で、初代豊沢広左エ門の工夫と聞いてゐる。六世鶴沢友次郎は 此の三から出る方を弾いてゐる。以前は友次郎は二から出る方を用ひてゐたが、晩年は三から出る方を専ら用ひてゐた。それから「爰も名高き」の「き」から三下りになりますが、此の名高き「き」を随分永くひっぱります。これは東海道五十三次を利かして、五十三の音がついてゐる。ツレ弾きは五世鶴沢友之助。

 (「東路に爰も名高き」 より 「一つ召せ\/駕篭に召せ」 マデ)

平作が十兵エを 実は我子と知らずに大切な客だと思って、荷物をかついで行く処で、爰の道行風な三味線の手は 何度聞いても面白い。然し感じから申すと、此の間が少々リズムに乗りすぎてゐると云ふ気がする。平作のヨチ\/した歩き方を表はしてゐるから、ヨチ\/した三味線の足取りになった方が好くはないかと思ふ。

 (「旦那申し 向ふの立場に」 ヨリ 「附けるとそのまゝ」 マデ)

次は少し飛んで 平作内 お米のクドキ。
親平作の怪我を治した薬は 傷の大妙薬と聞いて 娘お米は夫志津馬の傷を治したさに 薬を盗まうとするが、十兵エに見付けられて、その言訳を話す。大変有名な処で一口浄るりにも_々と語られる処。

 (一旦本腹あったれど ヨリ  今宵の事は此の場限り マデ)

津太夫と云ふ人は、声は 皺枯れてゐるが、こう云ふ処の色気は又格別で、紙治「河庄」の小春のクドキなどでも、あの声でどうしてあの色気が出るのか 不思議な音曲の魔術であろう。

 (お年寄られし ヨリ  心ぞ思ひやられたり)

これからが此の一段のクライマックス 平作切腹となる。津太夫は生前こんな事を云ってゐた。太夫がどこに一番力を入れて語るかは その床本を見れば分る。熱演する処は汗が飛び散って 床本の上へ落ちるから、自然黄色くなる。その黄色くなった処が一番力を入れて語ってゐる処である。私の沼津では、此の平作の切腹の処が一番黄色くなってゐます。確に此の処を津太夫は非常な熱演をしてゐた。これから平作が腹を切って我子の十兵エに敵の沢井又五郎の在所を此の死に行く親に教へてくれと頼む処となる。

 (外に聞く者は ヨリ 親父様\/ マデ)

平作の落入る処の南無阿弥陀佛から、十兵衛の南無阿弥陀佛。それに段切へ移るカハリの味、こう云ふ処が津太夫の芸である。 (安原)

 (東路に爰も名高き より 
一つ召せ\/駕篭に召せ まで)

             
(あらすじ)
舞台は東海道沼津の片はづれ、遠見に富士が見えます。街道は賑かな道中風景、舞台下手に雲助平作が火を焚いて、小さくうづくまってゐます。そこへ呉服屋十兵衛が供の安兵衛をつれて通りかゝり、大事の用を忘れたと言って安兵衛を元来た道へ引かへさせます。平作は下手から十兵衛に向って 荷を持たせてくれと頼みます。余り年寄りで痛々しいので致し方なく荷物を持たせますが、その荷が重さうです。然し、平作は懸命に力を出して十兵衛の跡について行きます。

 (旦那申し 向ふの立場に」 より
      附けるとそのまゝ     まで)

足の怪我を直した薬は傷の大妙薬であったのです。道で平作は娘のお米に会ひ、旦那の為に怪我がすぐ直った事を話すと、娘も大変喜んで、我が家へ十兵衛を連れて来ます。此の沼津の小揚の語り方は男徳斉を男(だん)徳斉と云う人がありますが、男(お)徳斉が正しいのです。
我が家に十兵衛を連れ帰ったお米は、夜更けになって十兵衛の持ってゐる疵薬を盗むのです。此処の「お米は一人物思ひ」から染太夫風となって語り方が沈んで変って来るのです。薬を取られた十兵衛は驚いてお米を引捕へ「金銀を取ったと云ふではなし、これには訳のありさうな事」と尋ねますと、お米は夫の疵養生の為にとその仔細をこれからのサワリで語ります。

 (一旦本腹あったれど より
      今宵の事は此の場限り まで)

此の次、「我が身の瀬川に身を投げてと」の「と」に独特の節が附いてゐますが、これは二世津太夫、即ち法善寺津太夫の型でこれを此の津太夫が受け継いで語ってゐるのです。

 (お年寄られし より
      心ぞ思ひやられたり まで)

十兵衛は同情して薬の入ってゐる印篭をワザと落として平作の家を立ち出でます。跡でお米は印篭を見付けてよく見ると、敵の股五郎の持物なので驚いて十兵衛の跡を追はんとしますと、平作は押へて、此の時十兵衛が我子である事が分ったので、自分が是が非でも聞き出してやると追って行きます。此処から千本松原の場になります。津太夫は、此の千本松原平作の切腹が特によかったので、津太夫と平作とが渾然と融け合ってゐました。平作は十兵衛に追付いて敵の股五郎の在所を聞かうとしますが十兵衛は股五郎に頼まれた男づくでどうしても云ひません。致し方なく平作は十兵衛の脇差で切腹して、股五郎の在所を知った相手が死ねば十兵衛ゐの男も立つし、生れて初めて会った年寄りの父平作の冥途の土産にも、股五郎の行衛を教へてくれと頼みます。後では、お米が闇の蔭で立聞いてゐるのです。十兵衛は致し方なく有名な文句、「股五郎が落付く先は九州相良 九州相良」と教へてやります。

 (外に聞く者は誰もない より
      親父様\/ まで)

平作は敵の在所が分った上に、我子の平三である十兵衛に初めて会ひ その手で介抱されて喜んで死んで行きます。此の死に行く平作の「南無阿弥陀佛」の語り方、それから気分を変えて、平作、お米、池添と十兵衛とが分れ行くところのカワリの妙味にお気を止めて下さい。 (安原)

         

(先斗町の妓)
津太夫が京都の先斗町のなにがしといふ芸者とねんごろにして居た時のこと、この女との逢瀬を楽しんだ勘定書が女の手から、大阪の津太夫の手許へ送られて来た。ところがこれを受取った当の津太夫は請求されてゐる金額の半分を送って これに添へた手紙の文句がまことによろしい。
この勘定はわたくし一人でよい目をしたものではこれなく、半分はそこもとより御支払下さるべく候
芝居の休みの時など口髯をのばして縁側に腰をかけた姿など、田舎の村夫子然とした写真が残って居るが、この人にしてこんな時代があったのかと、にはかに信用は出来ないが、若い頃にはいろ\/と艶っぽい話があったやうで、そこには流石に昔人間らしい洒脱なところがあったのは面白い。

          

(熊谷陣屋と津太夫)
明治三十五年三月、「一の谷嫩軍記」の通しが上演された時、その三段目の陣屋は はらはら屋と云はれた呂太夫の役場であった。ところが その呂太夫が病気のため、出場出来なくなったので、津太夫がその代り役をつとめた。津太夫の三十四才、文太夫といってゐた頃のことで、まだ二段目語りにはなって居ない。その時の彼の本段は中狂言の「岸姫松轡鑑」で後に摂津大掾となった二世越路太夫の飯原兵エ館の段に対して、その端場すぁる鶴ヶ丘八幡宮を語ってゐた。ところが、この陣屋の人形は 熊谷が初代玉造、相模が先代紋十郎、弥陀六が多為蔵といふ大へんな顔揃ひで、彼が、呂太夫の代役として このやうな勾欄に対してどんなに懸命の床をつとめたかは想像に余るものがあらう。幸ひに評判がよく 反物一反と金子三十円を御褒美にいただくといふ大へんな名誉をになった。
大正十三年五月、津太夫が三世越路太夫のあとをうけて文楽座の紋下に座った時、その披露狂言にも「一の谷」が選ばれ、その後も彼の当り役の一つとして度々上演を見てゐる。
「一の谷嫩軍記」は 浄瑠璃の栄えた頃の作品で 宝暦元年(一七五一)十二月、豊竹座に初演されたもの。作者は並木宗輔ら。その浄瑠璃が非常な評判をとって、翌年十一月迄打通したといふ。
平敦盛と 熊谷直実とが組打ちをしたといふ平家物語の一節を、院本作者一流の趣向を立てゝ書きあげられたもので、「熊谷陣屋の段」はその三段目に相当する。
直実の妻、相模は一子小次郎の安否を気づかって 関東からはるばると 今 合戦最中の生田、森の陣屋へ訪ねて来ます。ここへ偶然 参議経盛の室 藤の方が源氏方のために追はれて逃げ込んで来ますが、二人は十六年以前 主従の関係にあったもので 昔語りのあひだに 藤の方が院の胤を宿して生み落した敦盛が、熊谷のために討たれたことを物語り 旧恩を忘れないなら、夫を討つ助太夫をせよと 迫ります。これが「陣屋の段」の端場であります。
この切になりますと 熊谷が廟参りから戻って来て、思いがけない妻の来訪に驚きますが 子供の功名話とともに、自分も敦盛を討ったことを告げますと 先刻の藤の方は吾子の敵と斬ってかかりますが、妻から、これが昔の主人である藤の方と聞いてここに敦盛の首を切った顛末を物語ることになります。

 (物語らんと座を構へ 〜 
      扇を以て打招けば )
黒地に赤の丸を描いた軍扇を大きくかざして極った形から これを両手にとって前後に一つまはして 右へ身体を引きますと 軍扇が馬の頭に見たてた心で、敦盛が馬を引返す形になりますのは、時代物によくある振りですが、よく考へたものだと思ひます。この型が次の文句にはまります。

 (駒の頭を立て直し 〜
    上帯を取って引立て塵打拂ひ )

「早や落ち給へ」 と熊谷は促しますが、敦盛は「一旦敵に組敷かれ、なに面目にながらへん 早や首打てよ」と建気な覚悟を見せますので、熊谷は太刀を抜きかねます。この時 後の山から平山武者所が 熊谷は二心があると呼ぶ件につづきます。

 (逃げ去ったる平山が 〜
       是非に及ばず御首を )

次のところで「くどき嘆かせ給ふにぞ」 の後に相模が藤の方を諌める詞がありまして、自分は首実検の為、一間へ引込みますが、この「一間へ」 といふところは武者オクリといふ節でこゝに敦盛の首といふのは 実は吾子の小次郎の首であることは御承知のとほりでありますが、「一枝を切らば一指を切るべし」といふ義経の心を察して 敢て断行した身替り − 果して大将の御意に叶ふか否か、乾坤一擲の場に臨む、熊谷の大きな決意のほどを見せられる思ひのするところであります。この後に首実検、更に後段に至って 弥平兵エ宗清が修羅の妄執を絶ちかねて、猛り立つ件になる。

          

(鳥羽離宮)
清盛のために鳥羽離宮に幽閉されて居られます後白河法皇を多田、蔵人行綱が 松並検校となりすまして慰めに来て、隙をうかがって救ひ出さうとするのですが、慈には御殿の庭の紅葉を焼いて酒を暖めてたべました殿守の件のみやっこを 高倉天皇が「林間に酒を暖めて紅葉を焼く」という詩の心に通ずる風流の行為とお褒めになった平家物語の一節がとり入れられて居ります

 (紅葉の落葉掃き寄せ\/ ヨリ
     アゝ心地よいわ\/神国ぢゃ\/ )

ここに出て来ます三人の仕丁は 三人上戸の趣向になって居りまして 平治といふのが怒り上戸で 人形では大團七かしらを卵色に塗ったいかにも恐しげな表情をして居りまして 後に行綱の娘小桜を掴まへて 父の名を白状をせよと責めたてる役、又五郎は笑ひ上戸で三枚というかしら 藤作が泣き上戸で 斧右エ門といふかしら、いづれも平家の某といふ武士の假の姿なのであります。

 (これで惣身があたゝまり 〜
有難いわ\/ )

津太夫が紋下となった時、六世野沢吉兵エが相三味線となったが、「熊谷陣屋」を語った一興行限りで病没したので、その後釜に二十年来引退してゐました鶴沢友松を迎ひ入れようとして 大きな問題が起ったことがあった。その紛争が暫く治まって友松が相三味線としてはじめて文楽座へ出演した時の津太夫の出し物が この布引の四段目であった。この友松がのちの道八である。 (安原)

         

(寺子屋)
寺子屋は数ある浄瑠璃の内でも大変有名な段で 文楽は勿論 歌舞伎の方でも度々上演され、それだけ又よく研究し盡くされてゐるものでございます。
此の浄瑠璃は延享三年八月竹本座に初演され、当時の有名な作者 竹田出雲、並木千柳、三好松洛の合作になるもの、而も此の三人が夫々の場を受持って互ひにその趣向を凝らしたので作者独特の持味が、有機的に結ばれて 全段大変に波瀾に富んだ面白い場面が作られてゐる。
二段目 佐田村の段は並木千柳、此の四段目を竹田出雲が書いてゐる。而もこの三つの段は何れも親子の分れと云ふ事が劇の根本となっている。
大序に筆法傳授の場と言ふのがあって、此処で書道の大家である菅丞相が勅令により、その奥義を門弟の内の優れた者に傳授する事になるが、その目鑑に叶ったのが門弟ではあったが、不義の為、破門になって京の町外れ、鳴瀧村で寺子屋を開いて読書を教へてゐる武部源蔵である。
そこで源蔵を呼び寄せて、筆道の極意を教へるので、此処を筆法傳授の場といふ。
その時、参内の勅命が下って 急いで支度をして出かけると丞相の謀反を讒言した藤原時平の一味に召取られるので 居合せた源蔵は梅王丸と共に菅秀才を連れ出して 己が住家の鳴瀧村の寺子屋へ連れ帰る。この連れ出す場面を築地の段といって、文楽では時々出てゐた。そんなわけで、寺子屋の段では菅秀才が源蔵の子としてかくまはれていることになる。
尚 筆法傳授の場の中に、源蔵夫婦が四年振りで御台所に会った時、御台所から 二人の中に子も出来たかと尋ねますと 主人の罰が当って 日々の暮しにも困り、それ処ではございませんと云ふ処があるがこれも寺子屋に関係ある詞であらう。
マクラの源蔵戻りのところは誠に陰気で 舞台面でも割合に動きが尠く、ジミなところで、太夫 三味線 人形も一生懸命に勤めるものである。大抵の太夫はこゝを抜けるとやれ\/とするさうで 源蔵の心理描写が巧く演奏出来ぬと失敗になる。

 (どりやこちの子と
      〜 打ち守り居たりしが )

此の源蔵戻りは面白く語るものではなく、源蔵の心の悩みを太夫の芸を通じて 聞く者にドキンと打つ突からないといけないといはれる

 (忽ち面色和ぎ
     〜 イヤその手ではゆくまい)

此の次 「妻が嘆けば夫も目をすり せまじきものは宮仕へ と共に涙にくれゐたる」のところへ来ると 今迄のジメ\/した処と打って変って 太夫も三味線も人形も楽しむところである。猶此の文句で作者は源蔵の言葉を借りて、武家即ち支配階級に対する町人の反感を書いてゐるとも云はれます。或はそこでかう云ふ耳につく節付をしてゐるのかも知れない。ここで気分が変って玄蕃、松王の出に移る。

 (大事は小事なり
       〜 疎には致されず)

これから百姓が出て来て、銘々に我子を連れて帰る。
お芝居だとどうもかういふリズミカルな処が尠いので、何といっても文楽の面白味にかなはない。三味線にも大変面白い手がついてゐて、非常に楽しい。 (安原)

           

(忠臣蔵六段目)
總体に「忠臣蔵」といふ浄るりの節付は、至って単純であって、長い節と言ふものがなく、従って三味線の手数が少い方で、ただ九段目だけが複雑に出来てゐる程度だと言はれて居る。こんなところに「忠臣蔵」が流行した原因の一つがあるのかとも考えられる。しかしそれだけに六段目は語りにくい浄るりで 労して功の少い浄るりだとも言はれて居る。「忠臣蔵」が出ると 紋下の太夫は九段目の「山科」を語らねば この六段目を語る。六段目も亦、津太夫のよく聞かせてくれた浄るりの一つで、その代表的なものの一つであった。
 仇討の御用金にもと届けた金子が、不忠不義のものからは受け取らぬと返されたばかりか、母の口から親を殺して奪った金と、訴へられるところから、勘平の破滅が来る。

 (郷右エ門取敢へず...
       ...事を分け理を責むれば)

此の浄瑠璃には 三段目らしい山がないといはれるが、郷右エ門などは太夫として力の入れ所かと思ふ。温情のこもった折檻が、やがて勘平をして詰腹をきらしめるようになる。郷右エ門の詞一つで、勘平は立派に腹が切れるのであって、歌舞伎のやうに、そのキッカケを別に工夫する必要がない。

 (たまりかねて勘平...
        ...母は手負ひに縋り)

此の浄瑠璃には、沢山「金」といふ文字が使ってある。が、誰が調べたのかは知らないが、端場のお軽の身賣りから、段切まで「金」といふ字が四十七あるさうで、これが四十七士に利かすといふ院本作者らしい味噌なのであらう。ところが、只今の中程に 撃ち止めたるは我が舅、金は女房を売った金 といふとこがあって これを 我が舅、金は といっておいて チチン 金は女房を... と言ふのは「御所櫻三段目」の「尋ね會んと國を、チチン 國を出でて」と同じことで、他にも例のある語りでありますが、それでは金の字が一つ多くなって四十八になる。作者が工夫をして、独り、ほくそ笑んでゐる味噌が吹飛んで了ふことになる。 (大西)

義経千本桜の作者は 有名な竹田出雲、並木千柳、三好松洛の三人で、義経が主人公の様に見えるが、内容は壇之浦で滅亡した平家一族の中の 知盛、惟盛、教盛の後日物語である。傳説に依れば 此の三人は壇之浦の戦の後、密かに逃れて、夫々姿をかへて源氏に復讐しようと時機を待ってゐたと云ふが、此の伝説を取り上げて、平家の末路に同情した義経の情ある取計らひを扱ったもの。然し 義経は余り表面には出て来ずに、むしろワキ役に取扱はれてゐるで此の三段目は文楽でも 歌舞伎でも、いがみの権太が中心人物の様に見えるが、惟盛が中心人物である。此の場へ出て来る人物は、お里にしても、弥左エ門にしても、権太にしても、又若葉内侍にしても 梶原にしても 皆惟盛を中心として動いてゐる。
此の 浄瑠璃の初演は 延享四年十一月の竹本座。此の時代は人形浄瑠璃の全盛期で、夏祭浪花鑑、仮名手本忠臣蔵、楠昔噺、芦屋道満大内鑑、双蝶々曲輪日記、源平布引瀧等と、今日までも生命があって上演されてゐる名作が 此の千本桜の浄瑠璃を中心とした前後二年間、即ち五年の間に出来てゐる。その全盛期のさ中に出来た千本桜の中で一番有名な場が此の鮓屋である。此の場を語ったのは竹本此太夫、後の豊竹筑前少掾なので、此の場は筑前風といふ。筑前風とは、「ギン」「ハルギン」「ハリキリ」の音に独特の遣ひ方がある。一番終りの「後を慕ふて追ふて行く」には大変有名な話がある。年代はハッキリしないが多分幕末の頃であろう。名人三世竹本長門太夫が太夫で、三味線が名人二世豊沢団平、それに権太の人形を遣ってゐたのが、之亦名人初代吉田玉造、此の三名人の熱演は、非常な人気を呼んでゐた。或る日例に依り、激しい舞台が進んで この権太の引込みの「これ忘れてはと引さげて後を慕ふて」の処へ来ると 長門太夫のイキと、団平のウケと、玉造の踏出しとが激しくぶつ付かって、さしも頑丈であった玉造の腹帯が、プッツリ切れたと云ふ事であります。人形遣ひの腹帯と云へば帆木綿に刺子した丈夫な帯でございまして仲々少々の力では切れる様な代物ではないが、これが三人の気合の合致で切れたと云ふ。この芸道の激しさが如何なるものであったか想像出来よう。この切れた腹帯は、代々の玉造に伝へられたと云ふ事で、戦災前までは確かにあったと云ふ話で、四世玉造が悲惨な末期を遂げましたのsw、その後どうなってゐるか分らない。

          

(相三味線)
津太夫は相三味線に割合に無頓着であったのだろうか、相三味線と云ふ女房役には割に恵まれてゐない様であった。一寸頭に浮んで来る相三味線としても 野沢勝太郎、後の勝市、鶴沢友次郎、鶴沢叶、即ち今の清八、鶴沢道八、鶴沢寛治郎、鶴沢重造、鶴沢清二郎等と大分よく代ってゐる。此の内鶴沢友次郎との間が一番よく合って又一番長く続いてゐた。その次は鶴沢綱造、次が此の鶴沢叶 即ち四世大隅太夫を弾いてゐた鶴沢清八。その外は皆短かかった様である。然してその熱演と力とは聞く人に必づ何か強い印象を残した様で、「津太夫さんの浄瑠璃は聞いた後で何かしらん残るものがある」ちよく云われてゐた。 (安原)

        

(すしや)
「義経千本桜」三段目切の「すしや」は平重盛の嫡子 維盛卿は一門が西海へ落ちのびたあとひそかに高野に居る家来を頼って吉野へ遁れ、大和下市の酢屋弥左エ門方に来て下男に身をやつし弥助と名乗って居た。何も知らぬ此の家の娘お里は 美しい弥助に思ひをよせ、もう祝言の盃を取り交はすばかりになって居る。所へ夫維盛が高野へ遁れたとの噂を聞いて 妻の若葉の内侍が 子供の六代と共に 此の下市にたどりつき、偶然にも この弥左エ門の家に一夜の宿を求め こゝにはしなくも親子三人が 対面する事になる。

 (神ならず佛ならず...
       ... シエッ 扨は我が妻)

維盛は 供も連れぬ内侍の事をいぶかる。内侍は子金吾を連れて 都を出たには出たが、途中追手に子金吾を討たれた悲しい出来事を語り、あまりにも変った維盛の姿と 奥に寝て居る娘に目をつけて「若い女中の寝入りばな 殊に枕も二つあり」と恨む。人形ではこの言葉を聞いてお里が慌てゝ一方の黒い枕を蒲団の中に隠すが、歌舞伎では あまりなま\/しくて一寸出来ない事であろう。これが人形だと可愛いく安心して見て居られる。こんな所が人形芝居の特色であろう。

 (とゝ様かイノウ恨しやと...
         ...仇な枕も親共へ)

この仇な枕も家の主へお礼のつもりで契ったと言ふ 維盛の言葉を聞いて 折角の楽しい夢を破られた此の家の娘お里は わっとそこに泣き伏す。これからお馴染の「過ぎつる春の頃色めづらしい草中へ 絵にあるやうな殿御の御出」とお里のさわりになる。

 (義理にこれまで契りしと...
          ...いかがはせんと俄の仰天)

さてお里の嘆きに 維盛も内侍も途方に暮れて居る。
所へ梶原平三が見えると言ふので一同驚くが、お里は機転を利かせて弥左エ門の隠居所へおとす。一部始終を勝手で隠れて聞いて居たいがみの権太が 納戸から躍り出て、内侍、六代、維盛をひっ捕へてつき出さうと鮓桶を抱えて、韋駄天に駈け出す。津太夫の手強さ、芝居では手に汗を握る所である。 (吉永)

        

(津太夫)
俗にはらはら屋と呼ばれてゐた初代呂太夫の「熊谷陣屋」の代役を勤めたのが、当時まだ文太夫といってゐた津太夫の出世の糸口であった。呂太夫は摂津太夫の二世越路太夫 法善寺といった彼の師匠の二世津太夫につぐ文楽座の大立物で、二の音のすばらしく冴えた大物語りのこのはらはら屋に代って床に立った三十余才の青年太夫が市中の大評判になった。座主からは反物一反、金子三十円也の賞与が与へられるといふ大光栄に浴した。津太夫の当時の給金は、僅かに十円だったということである。この呂太夫の相三味線は野沢勝鳳といったが、この「陣屋」をお名残りとして呂太夫が引退したので、勝鳳が津太夫の三味線を弾くようになった。勝鳳の三味線は道八から色気をとってその代りに更に激しさと強さとを加へたものであるといふ。後に津太夫が三段目語りとして突っ張りの利く、本当の肚の出来たのはこの勝鳳のお蔭だと津太夫は感謝して居た。津太夫の語る浄るりのマクラなどはゴロ\/というだけで、文句の意味さへ聞きとり憎いものが多かったようであるが、浄るりが後に進むに従って、冴え\/と大きくなって来たようである。
六世広助が近衛家から、名庭絃阿弥といふ名をいただいた披露の為、東京の新富座に出演した時のこと。「千本桜」の寿し屋を津太夫は詰ったが なにしろ暑い盛りの七月のこよではあり、権太のもどり(戒心)の件がすんで「わっとばかりに伏沈む心ぞ思ひやられたり」の中落しへかゝると、本人が氷や氷やと合図をする。暑さと熱演のため、津太夫の身体に熱が入ったものと、三味線を弾いていた只今の寛治郎さんは隣りでハラハラして居たが、氷が運ばれて喉を通すと、三味線は、トーンシャンと締めてかゝる。そして次の「内侍は始終」の調子に少しも狂ひがなかったので、今更のように津太夫の芸の力に驚いたと、寛治郎さんは当時を思ひ出して語ってゐる。「傾城反魂香」吃の又平名筆の段は津太夫のお得意のもので、彼の野暮な 不器用な芸が、朴訥な田舎絵師をよく描いて、而も片輪者の哀れさを活かしてゐる。
これを御霊文楽座で初役として語った際、師匠から「吃又はわしの得手やないよって、大隅さんか清水さんに教へてもらへ」と云はれて、清水町の師匠(二世団平)の許へ日参して稽古をしたと云ってゐるが、これが果して団平直伝のものであったかどうかということには大きな疑問を私はもってゐる。吃りの技巧には「突き吃」と「ひき吃」との二つがあるが、津太夫のは「ひき吃」ということが出来ます。

 (爰に土佐の末弟...
       夜な\/見舞ふぞ殊勝なる)

           

(吃又)
こゝで又平夫婦は弟弟子の修理之助が土佐の苗字を許されたことを聞かされる。又平は女房の口を借りて「今生の思ひ出に死して後の石塔にも 俗名土佐の又平とお許しの言葉を賜りたい」と懇願するが、なか\/に許されない。折柄 狩野四郎二郎元信の家来雅楽之助が 六角家に騒動が起り、姫君が不破伴左エ門のために奪ひとられたことを報じます。又平はその姫君取返しの使者にやらせてもらひたいと願ふ。

 (又平何ぞ云ひたげに... ...思ひやられたり)

望みの綱を切れた又平は、庭先の手水鉢を石塔と定め、自分の絵姿を描き止め、自害をしようとすると、一念凝って厚さ尺余の御影石を通して裏へ抜けます。将監はここで又平に土佐の又平光起の名を与へ、姫君とり返しの使ひの役を命ずる。 (大西)

 由々し...
      ありゃ\/ 直った\/

            

(河庄)
「天満」の「に」と云ふ文字に一種独特の節がついてゐて、これを「ねじがね節」だ。此の河庄の「天満に」丈より外にない珍らしい節だ。大体ハルブシなのだが、治兵衛の家のあった堺筋辺は軒が深いのでねじがねで その軒が下がらぬ様に吊ってあった。此のねじがねを取ってハルブシを一つひねった所謂ねじがね節なるものが出来上がった訳だ。
次の「身を焦す」のところからの三味線の合の手テレンツテンは昔から酒の拳の間と手がついてゐるのだと伝へられてゐて、治兵衛が身も心もなく、死覚悟でしょんぼりとやって来る。一方茶屋の方では賑やかに酒の客が拳を打って囃し立ててゐる。こう云ふ情景を太夫の方は陰気に、三味線の方は派手にコントラストを付けて作曲した昔の人の手腕は仲々巧いものと感心させられる。尤も此の拳の手はゆっくりした手がつけてありますので、昔の拳はゆっくりしてゐたらしいのではないかと云はれてゐる。然し他方今日の様な早い拳の手で弾く人もある。

 (毎夜、毎夜の死覚悟、魂抜けてとぼ\/...
             ...馴染みよしみもない私)

        

(政太夫風)
でこれから有名な 繁太夫節にかゝる。此の河庄のサワリは色気を含んでそれで陰鬱な気分を出さねばならない。そして感情の変りが必要だ。此の河庄の場は塩町政太夫の風で 此の三代目政太夫と云ふ人は初め中太夫と称し、「中太夫のカワリ」と云ふ言葉がある位、カワリの名人であったさうである。それで此の段は、小春の気分の変り、治兵衛の感情の変り、孫右エ門の変りと夫々此の変りの妙味を特に矢釜しく云はれてゐるもの、之が巧く語る事が出来れば此の段の卒業合格と云ふ事になる。 (安原)

         

(津太夫の芸系)
竹本山城掾は、明治十四年に亡くなったが、京都で相当鳴らした人である。その門人の六世綱太夫が芸もよく人気もあったので、主役をその方へ譲り、自分は得意のチャリ場をよくやった。
 この綱太夫は身体に彫りもののある江戸っ児でなか\/の美声で、イキな語り方だったそうである。その弟子綱尾という女の太夫で相当名が売れていたのがあった。津太夫の祖父で村上甚吉という素人の浄るり大天狗が、この綱尾をはるばる九州まで呼寄せ我家に泊らしたりした時、当時十幾才かの卯之吉、即、後の津太夫に稽古をさせたりしたそうである。尤も手ほどきはそれより以前博多の豊沢栄二郎に貰ってゐる。
 その後卯之吉は祖父につれられて上阪したが、綱太夫が明治十六年九月に亡くなった為にもよるのか、同じ山城掾の門人であった二代目津太夫 後に法善寺と称せられた人の許へ弟子入した。
 法善寺は京都の小鳥屋の倅で素人の出であったが、小音ながらうれもよく効き、世話が殊に巧かった。上品で長手の顔のせいか御公卿さんというアダ名があったが、妻君は初代清六の娘でこの道には中々達者であったから、その間にあってウント仕込まれ「卯の\/」と可愛いがられた。
 文太夫から浜太夫、それから津太夫の名を襲いだが、元来声はよくないし、いづれかといえば不器用の方であったから、唯もう一生懸命に勉強して自然に名人上手といわれるようになったのである。

           

(堀川)
近頃河原達引は、天明二年(一七八二)春、大阪道頓堀中の芝居で初演をやって大評判をとったものであるが、作者は誰か判らない。丁度それより四十四五年以前にあった聖護院の心中や、芝居帰りに公家侍と所司代の下郎が四條河原で喧嘩したこと、それに盲の母親に孝行であった猿廻しが褒美に貰うた件、この三ッを一緒にして出来たものである。
 それでこの浄るりにも、河原の場で伝兵エが悪侍を殺す処があるが、これは二世河内屋延若などの当芸であった。
 堀川の段は お俊の兄、猿廻し與次郎の住居で盲目の母親が生計の足しにもと、近所の娘に三味線を教えて居る所から始まる。
 レコードの吹込は昭和四年頃、津太夫の六十二、三の時で、三味線の友次郎は松葉屋即ち五代目広助の門下であるからその手を弾く。
 元来この段は貧乏な猿廻しと盲の老母、それに何ぼ美しうても、心中しようと決心した女郎とその相方、時候は旧十二月中頃というから、どう考えても陽気である筈はない。それで昔は地味な節が付いていたが、天保頃に今日のような綺麗な手に変った。糸の方を艶やかにし、語る方を陰気にやるという処に面白味があるので、両方とも派手にやったら踊のおさらえの様になってしまうだらう。
 最初に「同じ都も世につれて、田舎がましの薄煙」の句であるが、これは「田舎が、増し」即ち田舎の方が遙に勝れている。マシであるという意味と、「田舎、ガマシ」田舎らしい。田舎の様など解するのと二種類ある。法善寺は「ガマシ」の方で、山城少掾もその門人であるから、其様に語っている。摂津大掾ももとは「ガマシ」であったが、後に「が増し」に改めた。このレコードは「が」で一寸切り「まし」と語っている。我々からいへば「ガマシ」という様な六つかしい言葉を使うよりは、田舎以上にわびしい暮しという方が此場の状況にピッタリするようである。
 稽古のところは二上りで 薗八からきた良い節が付いている。これはお染半九郎の鳥辺山心中の唄で、後のお俊伝兵エ両人の身の上を暗示して面白いものである。
 ここの語り方は、母親とおつるの両人をハッキリ区別してやる山城少掾のような語方と、それ程ハッキリでなく唯其の気持だけでやるのと二様になっているが、津太夫のはそれ程ハッキリやらず、先代大隅などは其中間という位のところであった。それで「女肌には」からおつる。「男も肌は」から母親で、「恋という字に」がおつるという風であるべきだが、ここではそう極端に区別されていない。
しかし「また明日」とおつるが帰って行く感じもよく出ているし、與次郎が戻ってくると「おゝ兄戻りやったか」という母親の盲の感じもよく、與次郎が「ちゃっと乳を呑ましてやりおれ」も結構であり、それから「鬼は冥途におるものを、つれなの老の命やと」の所など、巧まずして妙で、母親らしい情合がよく出ている。
この浄るりは原本をよく読み返えしてみると、母親が一番よく書けておるようで、其情愛の深さや、事情の判断を誤らず、私情を押さえて両人を落してやる気持を察し、それが盲目の老母であるという点などを考えると一層哀れ深いものを感じる。それで前の述懐にも、自分が子供の為には鬼であると嘆き、「つれなの老の命や」と悔むなどいかにも参愴で津太夫もこの辺を中々良く語ってゐる。
與次郎は親孝行のため褒美を貰うた事実から取材したもので、母親に対しての孝養はもとより、妹への深い愛情もあり、無論猿もよく可愛がっている。通常この役はシテで母の方がワキになっているようである。猿と一緒に暮しているというわけでもなからうが、どうもよくチャリになり、剽軽で阿呆のように考えられ、そういう風に語られる向きが多い様である。「堀川」は大体の筋から見て極めて暗い場面であるから、この様な俗受を主とした古い考え方の演出が誤っているのは今日の常識から見ても明かである。
與次郎は決して阿呆ではない。ただ正直一遍であり無学の臆病者であるに過ぎない。母の苦労を慰める為、嘘八百の身代話「按じる事は微塵もないぞや」の調子など、津太夫はこの点をよく心得て語っている。
ドレ灯をともそと與次郎が行灯をともして暖簾越しに「お俊\/」と妹を呼ぶところはいかにもシンミリとした情緒がある。ここでは正面にのれんがあって、與次郎がそれへ首を突込み後向きで声をかけると、お俊がシホ\/と出て来るが、其姿は、陰気なだけに一層麗しく、非常に美しい場面である。先代の紋十郎や今の文五郎などのを見ると、実際たまらぬ程綺麗なものであるが、いつやら歌舞伎座でやった時、奥の間が上手で暖簾が下手向いていたから、切角のお俊の美しい場面が一向見物に見へなかったことがある。
こゝでお俊が母や兄の手前、本心を隠して、伝兵エとの関係は別に深くないが、人の落目を見捨てるのを恥とする廓の習慣に従ったまでであるから、よく事情を話して切れることにしようと云うて、二人を安心させるが、半太夫節を取入れたサワリはいかにも優美に出来ている。
「頃しも師走十五夜の月はさゆれど胸の闇」で頬かむりした伝兵エが約束を違えず忍んで来て、ションボリと立止まるが、この辺は中々良い情緒が出ている。それから両人の呼交はす声を寝耳に聞いて與次郎が飛び起き、あわてて間違えてお俊を外へ締め出したりするが、こゝらは大体サラリと語っている。加勢\/の與次郎の声は母親も出て来て伝兵エの傍により「マア気を鎮みや と撫でさする背の手ざわり合点ゆかず、コレコレ與次郎」コリャ娘でない様なというあたり流石老功である。懐中から一通を出して「コリャ、ヤイコリャ伝兵エ」と虚勢を張る與次郎は普通であるが、「書置」と聞いてビックリする與次郎を制し、「コレコレ兄正直な、恟りすることはないわの」は盲らしい言葉に聞えるし、「おゝ気づかいな」と娘を内へ入れさせる処、それに「涙は更に」の処も先づ語れている。
引つづいて「何と詞も伝兵エ」の件りになるが、若い町人の苦労を伝ビョオエと発音するのはおかしい。これはたしか鰻谷にもあったと思ふが、ここは原本通り「何と詞も伝兵エが」と語る山城少掾の方に賛成したい。
「そりゃ聞えませぬ伝兵エさん」のサワリは、元来津太夫の声柄としてはこうした艶ものは不適当というのが常識であるが、このレコードで聞いて見ると思ひの外美事であるのは奇妙とも云へる。つまり夛年の修練の結果で、矢張り芸の力であらう。尤もこの人は見かけによらず実地での艶事の経験が中々豊富であったとの説もあるから、その影響も考えねばならぬかも知れないが、必ずしもお俊のような艶っぽい婦人ばかりでなく、老若男女貴賎を問はず、皆それ\/に個性を語りわけ、しかも一向美声とはいゝ得ぬ難声であるという点がやはりエライものという事が出来よう。
それにしても私の感じからいふと、このサワリよりも、それが済んだ後の「女の道を立て通す、娘の手前面目ない云々」の母親のクドキの方が優れて居ると思ふ。此一段ではどうしても母親が一番この人の語口にはまっているようである。 (高安)

三世津太夫は 昭和十六年五月に七十三才で亡くなったが病名は癌。そのために神経痛が起って大分悩んで居たが、病気が余程進んだから一度見舞はうと思ったことがある。日は忘れたが、知人と二人住吉の邸へ行った時、それは丁度鳥居から少し南へ行った西側であるが、奥の下屋敷に臥て居た。つい少し前、息子の、四代目津太夫君が結婚したので、その御祝品などが、まだいろ\/とそこらに散らばってゐて片附いておらぬ状をまざ\/と見せられ 我々は唯暗涙にむせぶばかりであった。病気は大分重態であったが、追々弱って来て、もう万事を諦めてゐたのかも知れない。後継ぎにお嫁さんも出来たし、神経痛も一時的に下火になって楽であったせいでもあったか、本人は割合に元気であったが、我々を見て唯合掌するだけで、尋ねると唯簡単に答へる外、別に話する程の力はなかった。
最後の段は 逆櫓であったが、丁度私が聞きに行った日から休演したので 残念ながら それを聞けず惜しいことをした。しかし病中の逆櫓では樋口次郎よりも権四郎の方が良かったのではなかったかと思ふ。実直で強さうだが、情にはもろい権四郎の段が、病苦をこらへ\/した上に一切を諦めるやうになったこの人に丁度適ったのでないかと、親しくその病床を見舞うた刹那にさう感じた。
 したがこれ申し傳兵エ様、 の母親のクドキは仲々良く殊に親の心を察して死なずに 何処か遠い処へでも落ちてくれ
 コレ拝みます頼みますと、手を合したる母親の 子故に迷ふ闇の闇  から
 袖くいしばりシャクリ泣き、  の大落しまで面白く聞ける。
それに應ずる與次郎の詞であるが、これだけでも仲々阿呆とは思はれない。但しこゝで編痴奇侖を云ふと、編笠がとにかく貧乏暮しを支へてゐる大事の商売道具の猿までやってしまへば、翌日からどうして喰べて行けるかと案じられてならない。「ソヤサカイ與次郎は阿呆やないか」と云はれるでせうが、「そこが芝居や」と答へるより外ない。
猿回しの三味線には、五代目広助、団平、三代目吉兵エと、三通りの手があるが、このレコードの友次郎は 松葉屋、即ち五代目広助の門人ですから、その手を弾きますが、団平のは清六、吉兵エのは清八へ伝へられてゐる。大体こゝの処は三味線が主になってゐて前弾など、仲々面白く出来てゐる。尤も團平の方には一寸異った処があったやうに思ふが、
 起きたら互に抱きつきやれ、オゝそれで機嫌が直ったぞ、  でキゝと音をさせるのは大抵同じ。
唄の方は大体サラリとやり、唯間に十分注意しなければならないが、お初徳兵エをお俊傳兵エに見立てゝ、時々その気分を出すのに、念入りにやるのとアッサリやるのと二つある。例へば よい女房じゃ\/ の処などがそれで、津太夫は極少し心持をして居る。
一般にいふと、法善寺の式であるが、殊に  日和を見たらば落ちてたも\/ オゝさうじゃ\/、 の  さうじゃ、 のあたりには一寸法善寺の面影を偲ぶことが出来る。
しかし法善寺は無い声で、独特のツヤがあり軽味もあって、
 これはしたり、おれの顔まで、_き居るか、エゝ何さらす、  の処 などは 洒落たものであったが、この人は先づソコ\/の処までやって居る。
津太夫が法善寺の弟子になったのは 実際非常な幸運といふべきもので、幼い時教はった女義太夫綱尾の関係から 六代目綱太夫について居たらどうなってゐましたかわからない。綱太夫は江戸児で声もよくイキな語り口であったさうだから、柄がスッカリ違ふ。それが明治十六年九月に亡くなって、同じく竹本山城掾の門であった法善寺につく事になったので 無い声を使って力で語ることを習うことが出来た。
法善寺は、初め聞いてゐると、眠たうなるやうに思ふ内追々と語込んでくると、三段目なり四段目なり堂々と語り分け サワリなど、美声で名高い摂津大掾よりも艶があった時もあったのを私はよく覚えて居る。三代目も初めは何を云ふているのか、サッパリわからないのが だん\/ シッカリして来て 別に声を変へることもなく 男でも女でも皆その役々を語りわけることが出来るやうになった。
多年東京に住んでゐた私の姉が 久し振りで帰阪して、文楽でその頃、名人の噂が東京まで聞えてゐた津太夫を聞き 「何や、あら文太夫やないか エライもんになったんやなァ」 と驚いたことがある。実際文太夫の時代 あんまりパッとしなかったが、大したものになり了うせたものである。 (高安)

        

(津太夫)
津太夫は悪声で声楽家としては 致命的な悪条件の人であったが、生涯を貫いて努力する人で 難行苦業 その悪声を克服し 反ってその底力の強さを生かして ついに彼独特の立派な芸を創り上げた。文楽の紋下と云ふ最高の栄誉ある地位についた後でも一意専心 太夫としての芸に磨きをかけ、芸談とか苦心談とか云ふ様なものは 殆んど何も残して居ないが、常に舞台即ち床で語る毎日の浄瑠璃を大切に考へ 何日いかなる時でも渾身の力で語らなければならないと云ふ事を始終云って居たが、人柄から浸み出たいゝ言葉だと思ふ。
得意の語物としては「沼津」「紙治」「陣屋」「鰻谷」「河庄」「城木屋」などですが、特に「弥作の鎌腹」「千本のすしや」「道明寺」「日向島の景清」などが津太夫の芸風にピッタリとはまったものであらう。
津太夫はなくなる年の昭和十六年二月に寛治郎の三味線で「逆櫓」を語ったのが最後の舞台。又昭和二十五年四月に現津太夫が父の名を襲名した時にも この「逆櫓」を出して居る。

         

(逆ろ)
「逆櫓」は「ひらかな盛衰記」の三段目の切り 船頭松右エ門の段の一節である。「ひらかな盛衰記」は凡そ二百二十年程前の元文四年四月、三好松洛 竹田小出雲らに依って作られ 大阪竹本座に上演せられたもので 題名の示す通り 源平盛衰記を ひらがなでわかり易く、興味のある様に書かれたもの、大体梶原源太景季のものがたりと、樋口次郎兼光のものがたりを 大筋にして書かれたもので 二つの物語が少しづつ相連関した五段つづきもの。
第一段は 木曽義仲が謀反の汚名を着せられたまゝ 粟津ヶ原で討死し 與方山吹御前が一子駒若を連れてお筆と供に落延びる。
第二段は 源太景季の宇治川先陣物語から 源太勘当の段になる。
第三段は 山吹御前、駒若とお筆の道行、山吹御前らが泊った大津の旅篭屋に梶原の家来の番場の忠太が追手として来る。その夜 此処に福島の船頭権四郎も 孫の槌松を連れて泊って居た。騒動になって駒若と槌松が取違へられて捕はれ、槌松は若君と間違へられて 追手の人々の手にかゝって殺されて了ふ。その次に有名な笹引の段があって 福島の松右エ門の内になる。
第四段は 又梶原源太のものがたりになって 神埼の揚屋千歳屋での無間の鐘の段があって 第五段で大団円となると云ふ仕組。

この逆櫓は三段目の切 松右エ門の内で 今しも松右エ門が梶原のお召から帰って来て 親権四郎にお召しの趣き、逆櫓の講釈を物語って どりや一休みと一間へ入ると入れ違ひに お筆が此家に尋ねて来る。

 (門に印の...   何かしるべに... )

大津の旅篭屋での騒動の跡で 主従チリヂリバラバラになって お筆は只一人 槌松の死骸の笈摺に書いてあった 攝州福島船頭松右エ門子槌松とあったのをたよりに 茲迄尋ねて来た。一時は二人は喜んで槌松の顔が早う見たいと云ふが 喜ばれると反って云ひ出しかねるが、これから大津の旅篭屋の騒動の模様や 槌松の最後の事が物語られる。 (升屋)

 ( ハテ早く...    萬の父様...  )

         

(播磨風)
此の三段目を語った太夫は 二代目竹本義太夫、即ち後の竹本播磨の少掾と言う名人で、今以て此のハリマ風といふのが、河内、大和、と共に義太夫節根本の節となってゐる。此の二代目義太夫と言ふ人は 元祖の初代義太夫が強音、大声なのに比べて 比較的小音であったので自分の力を文章の内容を描き出す方に注ぎ 音違ひを上手に運び、情を語ると言う方面を開拓した。それ故元祖義太夫と共に義太夫節の土台を作った人として尊ばれてゐる。むしろ後世に與へた影響としては此の二代目義太夫の方が大きいのではないかと思はれる。それに後世、沢山な名人上手が現はれていろ\/な節を取り入れて 今日御ききになる様な義太夫節が出来上がった。

        

(逆ろ)
此の三段目は 松右エ門内と逆櫓との二つの場面になってゐて一人の太夫で語るのが原則であるが、今日ではこれを二人で分けて語る様に成った。

 (光を添へぬらん)

此処へ出て来るお筆は色気があり過ぎてはいけない。駒若丸を助け出し、樋口にも会ってお家の再興を図らうと言ふ女丈夫なのだからその心で以て語る事が大切である。又、船頭、権四郎も余り世話人物になり過ぎてはいけない。此の辺のけじめが仲仲むつかしい。津太夫は割合によく語り分けてゐる。尚、此のレコードの初めにある「松を身当てにたづねより」の節はユリナガシといって、新口村の「新口村に着きけるが」や堀川の「身さへ不自由な暮しなり」と同じ事である。

 (門に印の...   添いわ )

次の「マ我子は如何に孫は如何にと」の辺り 津太夫のイキと友次郎の三味線とが、ぴったり合って誠に面白く聞かれる。又友次郎の三味線の好いところはその外、「暫く詞もなかりしが」の辺、又「と聞いてびっくり」のところの受撥等。

 (てはて早う逢ひたいな娘...   夢にまざ\/ と )

どうもレコードの針音が高くて 津太夫の芸の妙味がよく味はへないのが残念です。
で、最期の一面になりますが、「それとは知らぬ凡夫の浅間しさ」以下 例により二人の息が合って面白く聞かれます。

津太夫は 人物も好人物であった為か、師匠の法善寺津太夫には大変可愛がられてゐたが、その難声のため師匠の妻君のおキクさんにも「文さんの語るのを聞くと胸が痛んで来る」とよく言はれてゐたと言ふ事だ。
文さんとは 津太夫が若い時を文太夫と名のってゐたので、それで「文さん\/」と言はれてゐた。又師匠の津太夫には「卯之」「卯之」と言ってよく肩を揉まされてゐたといふ事です。「卯之」とは、津太夫の本名が村上卯之吉ですから それでその名の「卯之」を呼び捨てにしてゐたものだ。こんな風に悪い声であるので悪い時分に 「お前はとても見込みがないから」と度々太夫を諦める様に勧められたが、男子 志を立てゝの一念を貫くため、辛苦勉強して遂に櫓下と云ふ最高の地位を得るまでに至った。 (安原)

          

(太十)
今日は太夫 三世竹本津太夫、三味線六世鶴沢友次郎の“絵本太功記”十段目をお聞きに入れます。
太十の録音は昭和三年頃。津太夫、友次郎のコンビが絶頂に達した頃のものですが、友次郎は殊に此のレコードに対しては不満で、こういう事を申してゐた。
「こんなレコードを残した事は甚だ残念に思います。出来ることなら此のレコードをあるだけ集めて叩き壊して了いたいと思います。金儲けの為にこんなレコードを残したと思はれては甚だ遺憾に堪えませんから、なろうことならどうぜ公にしないで下さいませ」

         

(ふもと風)
此の浄瑠璃は寛政十一年七月、今年より百五十三年前、大阪道頓堀若太夫座で初演され、此の十段目を語ったのが、豊竹麓太夫で、此段の風を麓風という。此 麓太夫と云ふ人は、大阪船場の鍋屋宗兵エと云ふ全くの旦那衆で、若太夫座即ち東の芝居が経営困難になったので、それでは俺が出てやろうと云う事になって出勤したと云う。謂はば素人衆の天狗の元祖とでもいへよう。
しかし、その芸の確かさ、音声の豊かさと云ったら古今無双、腹も強くて当時一人も通う者がなかったと云うから、大したものである。
此の段を語る時には床脇に茶棚を据え、銀瓶に白湯を沸かし、玉露でも入れながら語ったと云う話である。当時は太夫は舞台へ出ずに、みす内の中で語ってゐたのでこんな事が出来たのであろう。
最初のマクラの「残る蕾の花一つ、水あげかねし風情にて、思案投げ首しほるゝ許り、漸ゝ涙押留め」迄語ると、もうそれで此の段を卒業した人か、まだ卒業の出来ぬ人かが分る位初めが難しいものだそうである。

 (残る蕾の花一つ  より
          叱られて)

「討死するは」と云う処は河内と云う節で「武夫の」音づかいをこれを麓風という。又この次に出て来る「討死と聞くならば」の音づかいも麓風である。

 (先立つ不孝は  ヨリ)

これは初菊のクドキの処で 先づ此処で聴衆のヤンヤと喝采を博する。

 (いとしい夫が  ヨリ
       はかなき心根を  マデ)

これから旅僧に化けた久吉が出て来るが、此の久吉の詞は 義太夫の方では狂言詞という。狂言詞とは軽く、砕けた中に一種の気品を持つ語り方をいう。
「現はれ出でたる武智光秀」 此処は大変有名な処で、その語り方に二通りある。一つは文楽系のやる武智光秀を大きく張ってやる行き方、他の一つは堀江系と云うよりも、先代大隅太夫の行き方で、短かく詰めて語る行き方があって、津太夫は前の大きく張ってやる方の行き方でやってゐる。此の方が普通のやり方であらう。

 ( 爰に刈取る真柴垣  より
        不義の高貴は浮べる雲  まで)

光秀に竹槍で突かれた老母が此の辺で大きな声を上げて光秀を戒める処は随分風変りな節付けで、聞き馴れてゐればこそ、それ程に思へませんが理屈から云へば一寸変なものだ。殊に「主を殺した天罰の」は此の段で一番声のいる処だ。これが、竹槍で突かれて瀕死の老母の云ふ言葉なのだから、初演の麓太夫も随分皮肉な節付をしたものだ。大正の終り頃文楽で大序会と云ふ若い太夫を奨励する会があって、その時或る太夫が、此の「主を殺した天罰の」のところで、見台に乗り上って声を張り上げた処、餘り気張りすぎて後へひっくり返って大笑ひになったと云ふ面白い事のあったのも此処の処だ。
それから次の操のクドキも素人衆は此処が聞かし処と、かまえて語るが、文楽の太夫となると、流石に此の辺はサラリとやる。

 (主君を討って功名顔  より
          陸路に漕付け  まで)

手負になって之亦瀕死の十次郎が声張り上げて、戦さの有様を物語ると云ふ随分理屈に合はぬ節付だが、聞いて見るとその不自然が餘り気にならぬのは、そこに芸の力といふものがあるからだろうか。

 (追ひ\/都へ  より
         父上母上初菊殿  まで )

これから操のクドキ 又初菊の後のクドキとなり、津太夫のあの汗をかいた熱演振りが目に浮ぶ。
 さて光秀は此処で親の慈悲心、子故の闇、輪廻の絆に締付けられて堪へかねて、男泣きに泣くところだが、太功記十段目の眼目は此の辺りにあるので 爰で或程度心理描写の演出がいる訳だ。

 (名残り惜しやと  より
        疑ひもなき真柴久秀  まで)

 此の辺り人形の光秀 走り六法を踏んで大活躍、見てゐて大変力の入る処。
 そして以前旅僧で来てゐた久吉が、此処で陣羽織姿で出て来て光秀と対面する。此処で「真柴筑前守久吉 対面せんと呼はって、三衣に代はる陣羽織」となるが、此の「三衣に代はる」以下は江戸と云ふ節で、勇ましい処丈につける。
 これから老母も十次郎も深手の為に事切れる。昔から此の太十では、老母も十次郎も丁寧に殺せと云ふ教へがある。 (安原)

         

(島太夫風の寺子屋)
菅原伝授手習鑑の初演には、当時の櫓下豊竹筑前掾が 三段目佐田村を一人でぶっ通して語ってゐる。約二時間半位かゝるものである。あの有名な筑前風の佐田村の段を作り上げてゐる。当時、豊竹筑前掾は 竹本此太夫と云ってゐた。
それから竹本政太夫 ザコバの十兵衛の政太夫、西口とも云ふあの有名な二世竹本政太夫が二段目道明寺を語ってゐる。
其の他当時の錦太夫とか百合太夫とか 名人上手の雲と居る中で、一番大切な四段目を引受けたのが竹本島太夫、後に豊竹座へ移って豊竹島太夫となり、更に二世豊竹若太夫、即ち豊竹の元祖の名前である若太夫の二代目を継いだ太夫である。
島太夫は、此の寺子屋の外に二段目の中、即ち道明寺の杖折檻と東天紅とを語ってゐる。この杖折檻、東天紅、それに此の寺子屋、その外 廿四孝勘助住家の段、岸の姫松三段目の切、飯原館 一の谷嫩軍記の組打こんなものが島太夫の語ったもので、これらの浄瑠璃を通して聞いて見ると、島太夫と云ふ人は腹が強い。つまり腹の底から出る様な太い シッカリした 強い声を出す人であるようだ。その腹が強くて、声が和らかで ノリの名手であって、繊細と反対の大きな浄瑠璃を語ってゐた人である事が御分りになるだらう。これを島太夫風といふ。此の寺子屋は島太夫風の語りものである。

             

(寺子屋)
寺子の帰り よだれくりの処では「抱いてやらうと干鮭を猫なで親が喰へ行く」の「喰へ行く」のところ、三味線へノッテ語ると、切らずにスッと語るのと二つの行方があります。
津太夫のは 切らずに語る文楽系で 三味線へノッテ語るのが彦六系の行き方である。此の一寸前の「命の花おち逃れしと、ぢいが抱へて走り行く」のところも同様。それから「かりそめならぬ右大臣の若者、かき首、ねぢ首にも至されず」のねぢ首は皮肉って語るものと聞いてゐる。

 (次は十五の涎くり  より
        やあその手は喰はぬ  まで)

 これからの松王を津太夫は大変よく語ってゐる。
それから源蔵の引込み 「病みほうけた汝が眼玉がでんぐり返り」 以下源蔵の詞の早口な処は、身体の調子が余程よくなくては語れぬものだといはれる。此の「胸をすえてぞ入にける」の処は太夫と三味線が互ひに譲らぬ様に息を合さねばならない。双方で合せに行くと必ず間がぬけるといふことだ。殊に「胸を据えてぞ」の「胸を」の跡を受ける間を三味線の方は大変大切にしてゐて、巧く受けられるとその次のハリキリの音のジャンが気持ちよく弾けると云ふ事だ。それから松王が机の数を数へる処で「先達っていんだ餓鬼等は以上八人机の数が一脚多い」と語ってゐる。これは文楽系の行き方で これを「餓鬼らを数ふれば 机の数が一脚多い」と語る行き方もある。此の方は多く彦六系の人が語ってゐる。それから松王が戸浪に「何馬鹿な」 と押へつける処も 太夫は仲々苦心する処だ。又その次「ふん込む足もけしとむ内」や「固唾を呑んで控えゐる」 のあたりはどんな太夫でも三味線でも苦しくないと云ふ人は一人もないそうだ。

 (暫しの用捨と暇取らせ  より
           夫は元より)

 此の辺源蔵や戸浪と同様 太夫・三味線も一生懸命「云ふ一言も命がけ」の文句通り 命がけ位の意気込みで 演奏する。これから松王の首実験で 此の段の中の最高潮に達する場面だが、此の辺になると 太夫、三味線 人形もイキで運ぶ丈だ。考えたり 合せたりしては間延びて了ふ。検使の玄蕃の語り方には口傳があって、口元で語って軽くタタンでほうると云ふのがその口傳だ。
それから松王の帰るところ、「駕篭にゆられて、立帰る。夫婦は門の戸ぴつしやり」 此の「立帰る。夫婦」 では息を切ってはいけない。先代大隅太夫が若い頃名人團平に稽古して貰ってゐた時 此処で息を抜いたら団平になぐり付けられたと云ふ話がある。レコードでは「立帰る」で第十面を終り、第十一面から「夫婦は門の戸」を初めてゐる。吹込技師に義太夫の心得があったら こんな事はしなかったであらう。それから松王が帰って後、女房の戸浪の「喜び勇む折からに」から東風の語り口になる。それ迄は西風で語る。此の段を初めて語った島太夫は初めが竹本、後に豊竹になって、西風も東風もやって人である。それで気分をかへる為、此処から東風にしたのかも知れない。 (安原)

 此の寺子屋の段は、此の段丈見ても色々と変化がある。先づ最初の源蔵戻りが陰、それから玄蕃の出から百姓子の帰りの辺で陽になり、松王の首実検で最高潮に達し、それが済んで、今迄の西風が、東風に変り、千代の「死顔なりと」からクドキに入り、松王の泣き笑ひが陰、段切れのいろは送りが陽と一段の中にこれ丈の変化を持たせてゐる。

 (不思議の思ひに剱もなまり  より
           内へいなるゝものぞいの  まで)

 これから千代のクドキになる。松王が女房に「御夫婦の手前もあるわい」と悲しさの照れかくしに千代を叱るところ、人形では待ち合せになって、千代が上手に行って すねる格好する人形独特の面白さがあります。それから有名な松王の泣笑ひになりますが、津太夫の語り方は又一寸変ってゐる。

 (死顔なりとも今一度  より
          羨しかろ、けなりかろ  まで)

これから後は聞き手を喜ばす所が大変多い。「ハット答へて家来共」から調子が上りますが、修練さへ積んでゐれば、調子が上っても決して苦しいものではないさうだ。次のいろは送りの入る前、「門火々々と門火を頼み頼まるゝ」の「頼み頼まるゝ」の節は上總オトシと云ふ節で 此処丈より外ない (安原)