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浄瑠璃名盤集資料 五世竹本錣太夫

          

使われた音源 (管理人加筆分)
ビクター   伊勢音頭恋寝刃 油屋の段 五世竹本錣太夫 二世豊沢新左衛門
ビクター   桂川連理柵 帯屋の段  五世竹本錣太夫 二世豊沢新左衛門
ビクター   天網島時雨炬燵 紙屋の段 五世竹本錣太夫 二世豊沢新左衛門
ビクター   桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段   五世竹本錣太夫 二世豊沢新左衛門  部分音源
ビクター   廓文章 吉田屋の段    五世竹本錣太夫 二世豊沢新左衛門
ビクター   恋娘昔八丈 鈴ヶ森の段  五世竹本錣太夫 二世豊沢新左衛門
ビクター   三十三間堂棟木由来 平太郎住家の段 五世竹本錣太夫 二世豊沢新左衛門 解説なし
ビクター?  艶容女舞衣 酒屋の段  五世竹本錣太夫 二世豊沢新左衛門
ビクター   明烏六花曙 山名屋の段 五世竹本錣太夫 二世豊沢新左衛門
ビクター   朝顔日記 宿屋の段  五世竹本錣太夫 二世豊沢新左衛門
ビクター   朝顔日記 大井川の段 五世竹本錣太夫 二世豊沢新左衛門

     

(放送記録) 名人のおもかげ
79回 昭和25年9月5日 解説:大西 五世竹本錣太夫の「伊勢音頭」
106回 昭和25年11月22日 解説:大西 五世竹本錣太夫の「帯屋」
108回 昭和25年11月24日 解説:安原 五世竹本錣太夫の「紙冶」
162回 昭和26年2月19日 解説:木村 五世竹本錣太夫の「伊勢音頭」
215回 昭和26年7月6日 解説:安原 五世竹本錣太夫の「鰻谷」(1)
216回 昭和26年7月9日 解説:安原 五世竹本錣太夫の「鰻谷」(2)
305回 昭和27年3月10日 解説:大西 五世竹本錣太夫の「廓文章」
389回 昭和27年6月16日 解説:大西 五世竹本錣太夫の「鈴ヶ森」と「柳」
407回 昭和27年7月22日 解説:吉永 五世竹本錣太夫の「帯屋」
411回 昭和27年7月28日 解説:木村 五世竹本錣太夫の「酒屋」と「油屋」
425回 昭和27年9月1日 解説:大西 五世竹本錣太夫の「明烏」
429回 昭和27年9月5日 解説:木村 五世竹本錣太夫の「朝顔」
436回 昭和27年9月16日 解説:吉永 五世竹本錣太夫の「紙冶」
456回 昭和27年11月14日 解説:木村 五世竹本錣太夫と二世豊沢新左エ門の「吉田屋」
463回 昭和27年12月28日 解説:木村 五世竹本錣太夫の「伊勢音頭」

      

(略歴)
五世竹本錣太夫は本名を井上市太郎といふ。明治九年三月 東京芝の金杉で指物師の職人の子として生れた。七才の頃から浄瑠璃の稽古をし、明治廿二年十四才で竹本識太夫(後の六世岡太夫)に入門して識子太夫と名乗る。後五世竹本錣太夫を襲名して寄席廻りをしたが、明治三十年廿二才の時来阪して 竹本大隅太夫の門に入る。(大隅太夫の歿後は伊達太夫の預り弟子となる。)明治三十二年一月の明楽座で「千本桜」の大序を語ったのが人形浄瑠璃の舞台に出た初めである。中一年程御霊文楽座へ出勤したこともあるが、堀江座、近松座と彦六系の芝居に出勤した。大正三年二月、師匠の伊達太夫と共に文楽座へ入座。津太夫、古靱太夫、土佐太夫の所謂三巨頭時代に、駒太夫、源太夫と共に第二陣を形づくり、昭和初年の旺盛期に活躍した。昭和十五年四月が最後の舞台となって、同年十二月六十五才で歿した。

(錣太夫の機知)
五世錣太夫がはじめて人形浄るりの一座へ加わって間もない明治三十三年一月の明楽座は「仮名手本忠臣蔵」の通しで、大切に「雪月花」といふ書卸しの所作事三段返しがついた。この「雪月花」は団平の内儀お千賀さんの作を団平師匠が作曲したもので、その内容は存じませんが、「内地雑居」といふところがあって、錣太夫は、「太鼓持蝶々村家蝶々八といふ役を勤めて大当りをとったのが自分の出世の糸口だった」と本人は語って居る。なんでもこの太鼓持が当時全盛だった名妓連中の名前を読み込んだ文句を語るといふのであるから、恐らくは場当たり式の可笑味タップリのものだったかと想像される。芸の達者な錣太夫が晩年まで、チャリ場では一寸余人の追随を許さなかったのに不思議はない。「碁太平記」の雷門とか「天の網島時雨の炬燵」の端場であるちよんがれといふような狂言が非常に面白くてその切りを語る太夫を喰って了うということがよくあった。四国の旅先で、一つの土地では非常な大入満員だったが次に乗り込んだ土地ではサッパリお客が来ない。とうとう半額割引の札が出ることになったが、途端にお客がドシ\/と詰めかけた。錣太夫はこの時「朝顔話」の宿屋を語って居たが、「露の干ぬ間」の琴唄を所望した客が、自分の恋焦がれている夫と知って跡を追って行く段になって、止める宿屋の亭主徳兵エ門との争ひのところで、満員のお客はワッワッと歓声をあげて喜んで居る。舞台は宿屋から大井川に変って、三重から、
 追うて行く、名に高き街道一の大井川、篠を乱して降る雨に打交りたるはたたがみ−
となるが、ここで錣太夫は、
 名に高きすやまの金ちや、大喜び
と語った。「すやまの金ちや」とはこの道では安もののお客といふかくし言葉であったが、なんにも知らない客は、髪を乱した深雪の出で、尚もワッ\/と騒いで居た。錣太夫はこのように当意即妙のうまい人で、このような逸話は数知らず残って居る。本人は至って真面目で、チャリ場が出ると、きまって錣太夫の門を叩くものがあるが、「なんでこんなものばかり俺のところへ聞きに来よるのや」と不思議がって居たと云ふことである。 (大西)

(錣太夫と艶物)
また師匠の伊達太夫(後の土佐太夫)が艶物語りとして評判だったから、錣も艶ものをよく語り、豊富な声で人気があったから「妹背山」の吉野川が出ると、雛鳥の役は永くこの人の持役であった。役が決まると大へん御機嫌で、家へ帰ってお内儀を捕へて、「俺は大掾師匠の定高で雛鳥を勤めるのや」と得意になって居た。 (大西)

(帯屋)
「帯屋」は錣太夫のチャリ語りの芸を売込まうとする企画ではなかったかと思ふ。

  (あがり行く... ...ウントセ、それからごろうじ)

「帯屋」といふ浄るりでは親半斉などは作者の菅専助好みのおやぢであって、写実風に巧く語ると面白いが、錣太夫はこうした人物は不得意で、却って婆の下司張ったところに特徴を発揮してゐるようであり、又、儀平の笑いなどは達者なものである。三味線の新左エ門は永らく二世春子太夫を弾いてた本格の芸で、美しい音色で錣太夫の奔放な芸を助けて居る。次の「チョ\/、ちょと門口から」長吉の出の絃などは誠に楽しい。このような面白い芸を聞かせて文楽のよい色どりになってゐた錣太夫も、かりそめの風邪がもとで、少し脳をわるくして亡くなったといふのは悲しいことである。では儀平のハメをはづした笑ひぶりと、丁稚長吉の薄馬鹿な様子のとり合せを御鑑賞下さい。

(錣太夫の略歴)
錣太夫は本名を井上市太郎と云ふ。明治十年三月東京芝で生れた。即ち今の山城少掾と共に東京出の太夫で、山城少掾よりも一つ年上であった。しかし山城少掾の芸格の適正深遠な、どこか東京人を思わせる一点ゆるがせにしない芸風とは打って変って、錣太夫は誰が見ても、この人が東京人であるとは思へない体臭を持っていた。山城少掾同様よく肥えていたが、山城少掾の宗匠風とは違い、格好ももっさりしていて、パンという綽名がついていた。ぶく\/とふくれている所が食パンによくにていたからでしょうが、こんなものに譬へられる所にこの人の人間が出ていると思う。そして劇作家の食満南北さんと瓜二つの所があった。艶物語りと云はれたが、確かに物によっては味のあるものもあり、「紙治」の端場の伝海坊のチョンガレとか「白石噺」の雷門のどじょうとかで、その面白さはお腹をかゝえたものであった。山城少掾とは対照的にふざけた面白い淨るりを語った人である。錣太夫は晩年、事志と反して、切語りとして名を成さず、端場語りの名人として私共の頭に残っているが、この人達の健在な時には、確かに文楽座はバラエティに富んだ楽しい世界であった。一級品とは云えなかったが、涙の方が重んじられる悲劇の方に、より高尚、神聖な世界があると考えがちの芸術の世界に笑いがどれだけ重大な役割を演じていたかということを錣太夫なき今日、しみじみと感じるのである。それでは錣太夫の伝記の概略をお話しよう。
父は、机や箪笥をつくる職人、即ち指物師であったが、七才の時横浜の相生町に移った。そこで岡太夫(政太夫)の弟子になり、小政太夫と名乗って十四五才まで稽古をしていたが、その後東京へ出て識太夫の弟子となって識子太夫となり、後に錣太夫と改めて寄席に出勤していたが、義太夫を本当に修業するには大阪の本場に出なければならぬと信じ、明治二十九年、廿才の時、土佐太夫、当時の伊達太夫を頼って大阪へ来た。しばらく弁天座の素淨るりなどに出て居たが、伊達、新靱一座で巡業に出ることになり、小倉、博多、熊本などを廻って、神戸の大黒座を打ち、帰阪してからは、弁天座の住太夫一座へ出勤した。明治三十一年十一月明楽座が新築落成し、大隅、住、組、新靱などの一座で開演、この時の狂言は千本桜の通しで、その大序を語ったのが人形芝居へ出た初めである。錣太夫の出世狂言が、明治三十三年、廿四才の時明楽座でお千賀さんの作で、団平の節付した内地雑居で、その時幇間蝶々村蝶々八という役で当時全盛の芸妓の名を入れた文句を語って好評を博したというのは如何にも後年の錣太夫にふさわしい話ではないだろうか、錣太夫は天性茶利語りに出来ていたようだ。さて、その三月、明楽座で大江山が出た時、伊達(土佐)の鬼女、大島(生島)の綱で、大薩摩を入れることになり、当時中座に東京から出勤していた常磐津林中、文字兵エがいたのを幸い、錣太夫と友松(道八)と二人で大薩摩の稽古に行き、唄は錣太夫、三味線は道八、八雲琴の連弾が富士伊之助で演じると文楽座から「浄るりに細三味線を入れるのはいけない」と抗議をうけたが、仙左エ門の団平がこの説を退けた。明楽座が歿落して、大隅、伊達の一座で東京に歌舞伎座へ乗込み、三年間、東京の各寄席を廻り、明治三十七年五月帰阪して一時文楽座に入り一の谷の陣門を語った。さて明治三十八年九月、堀江座が再興されると、又師匠の伊達太夫について堀江座に移った。そして静太夫、ついこの間亡くなった大隅太夫と共に青年有為の太夫と評された。その当時の錣太夫の人気を古い記録から伺って見よう。明治三十九年五月、錣太夫の三十才の時である。師匠の伊達太夫(土佐)の切の合邦に対して中を語ったが「中の錣は何時も乍ら大人気なり。彼の浅香姫の詞などは専売とも云うべく、月涼し花美しきという音声で高尚に語り、百姓の出となって、天王寺清水附近の所盡し文句、百姓のチャリも大舞台にて満場を唸らせ、至極結構であった」と評されている。 (吉永)

 (柳の馬場を押小路... )

(帯屋)
繁斎は「おばば聞きづらい」とたしなめるが、口うるさい女房に逆うのは後生の邪魔と嫁お絹を連れて隠居所へ引込むと、入れ違いに弟の儀兵エが帰って来て兄長右エ門のつげ口を云う。そこへ身に迫る難儀をどう切り抜けたものかと胸いためながら長右エ門が帰って来る。

 (見るより母はやんぐわん声... )

親繁斎のにじみ出る慈悲心は描きたりないが、この辺りから、儀兵エが面白くなる。

 (サア\/  お父つあん...  )

いよ\/儀兵エの本領が発揮される。本当に楽しんで語っている。聞く私達まで、つり込まれてしまう。而も笑いながら、ふと脳病を患って淋しく死んで行った錣太夫を思い出して悲しくなる。

 (アハ...  ア笑ったらちゃんと...  )

首をくにゃ\/とふって恥しそうに云う長吉、体を乗り出して聞く儀兵エが見えるようである。

 (何ぢやい 聞えやせんがな...  )  (吉永)

(鰻谷)
今日は竹本錣太夫、三味線豊沢新左エ門の「鰻谷」の第一回この鰻谷と云う淨るりは元来は「褄重浪花八文字」と云う八段物の六ッ目鰻谷の段を改作したもので、此の褄重の淨るりは明和六年二月竹本座で初演されている。作者は八氏平七である。それから三年経た安永二年、竹本綱太夫が今日普通に称せられる。「櫻鍔恨鮫鞘」と云う芸題で語っている。大抵此の淨るりは此の鰻谷丈が語れていて、而も昔から紋下格の太夫が受持っているのでも分る様に大変重い淨るりである。これからお聞きの竹本錣太夫は世話畑の人で殊に此の「鰻谷」の様なものは柄に合ったものの様に考へられるが、此のレコードは思った程よく出来ていない。吹込みは昭和八年頃と思ふから、錣太夫としては晩年のものである。此の時代は錣太夫は文楽ではそろ\/端場の方へ廻されていて、不遇の地位に押込まれる様になり出した頃である。然しこう云う昔の太夫はどことなく妙味のあるもので、これであの品の悪いところがなかったら、どんなに持て囃されたか分らない。ではマクラの「隣座敷に弾き出す」から初めるが、全段を十四面にまとめて吹込んでいるが、途中大分省略しているのは大変惜しいと思ふ。

 隣座敷に弾出す...  昨日も今日も飛鳥川...

只今の「流に淀む」などは錣節とでも申しませうか、今少し感心出来ぬ様に思ふが何分声量の豊富な人だけ「妻に通ひしかね言も」などは大変面白いと思ふ。これから八郎兵エの出になるが、此の八郎兵エは人形の頭も「けんびし」を使ふ主役であるから、此の錣太夫の様にチャリがかって端役の様に聞えるのはどうかと思ふ。又婆も少し強すぎるように思ふ。然し婆の「聟を取りました」の詞は軽くて仲々面白く、又香具屋の弥兵エは傑作である。こう云ふ役を語らせたら天下一品であろう。では八郎兵エの出から弥兵エとのやりとりのあたり(移る。)

 (歌も古手屋八郎兵エ...  ...我等が女房は)

弥兵エは中々よく出来ていると思ふ。此の次「非道乍らも理の当然」以下から奥より出て来るてんぼの重兵エが之亦大変よく出来ている。殊に「仲人はよい加減」から、「母は弥兵エを伴ひ入る」迄の間、新左エ門の大変面白い三味線と相俟って錣太夫の大傑作である。それから「跡打ち見やり女房」になるが、これは先代大隅太夫の大変好いのが残っているので、それと比較すると錣太夫のは少し強すぎるのではないかと思ふ。ではこれから、今申上げた「てんぼ」の重兵エの出て来る面白い処を気に留める様。

 (八郎兵エ堪りかね...  ...殿御を持ちやんなや)

これからお妻のクドキに入るが此の錣太夫と云ふ人は大変声量の豊かな人で上がつかえず、二の音もよく天分は確かに恵まれてゐたと思ふ。だからこれからのクドキも大変よく出来ていて、錣太夫の面目を発揮している。こゝらを聞いていると当時の文楽座の床で油汗を流し乍ら、あの大きな顔を色々にゆがめて一生懸命に語っていた錣太夫の姿を思ひ出されて、そぞろ懐しい情に堪へない。一方新左エ門は平気で澄して淡々として弾き、その中に時々びっくりする様な面白い三味線を聞かせてくれた。又弥兵エの出て来るところ新左エ門の面白い三味線や、レコードの一番終り「心の一重を解いて貰はにや落付かぬ」も面白く語れている。

 (アイそれもよう合点して... ...貰はにや落付かぬ)

お半が母親お妻に「気分が悪いのなら薬買ふて来うかへ」言ふと、お妻が「おうよう言って給もつた\/」と言って泣く。丁度その時近所で「徒髪にとめ伽羅の」二上りの歌を唱ふ大変面白い処があるが、残念ながらレコードに吹き込まれていない。

前は八郎兵衛が久方振り我が家へ帰って来ると、女房のお妻が、香具屋弥兵衛と云ふ者の女房になって居る。驚いてその訳を訊かうとすると、お妻の母親が、八郎兵衛が貧乏だから金持ちの弥兵衛にやったのだと云ふ。八郎兵衛は主君の為に入用な、五十両の金を作る為の手段と、善意に解して、一たん我が家を出る。お妻は死を覚悟して、娘お半に成人になってからの事を細々と云ひ聞かせるところへ、新たに婿になった弥兵衛が、早くと女房にせき立てゝ「その美しい心の一重を解いで貰はにや落ち付かぬ」と云ふ所までをお送りした。この「鰻谷」と云ふ浄瑠璃は初代、竹本綱太夫が語り其の風が今日まで伝って居ると言はれている。それ故にこの段を綱太夫風と言ふ。綱太夫とは太夫の方は、どちらかと云へば陰気に語り、三味線は反対に派手にはこぶいき方で、壷坂も綱太夫風があると云はれて居る。しかし
、「竹本豊竹音曲高名集」と云ふ本を見るとこの段は、三世竹本染太夫即ち梶太夫の染太夫、その染太夫が評判よろしと出て居る。そこで綱太夫が土台を作って、三世染太夫が大成したとみてよいのではないかと思ふ。そこで今日は、弥兵衛の「さあさあ早う来てたもいの」お妻の「さあゆくわいの」から始める。

 (ウーイサア\/早う来て給もいの鐘諸共に試してみんと門の口)

相変らず新左エ門の三味線は見事である。錣太夫も先代大隅太夫の型をよくとって居る。ただ、大隅ほどサラ\/とは行っていないのは致し方がない。これから出てくる「ヤキリ\/ナ切り殺し」以下も大隅張り、それに新左エ門の三味線がよく錣太夫を助けて誠に面白い浄瑠璃をきかせて呉れて居る。

 (ヤアそこに居るはお半ぢやないか袂や袂に渕なせり)

女房のお妻を誤解で八郎兵衛が殺す段で、誠に陰惨な場面であるが、文楽の人形は、かういふ殺し場でも濡れ場でも、妙に実感を唆らず、割合に安心して観て居られる。これを浄瑠璃の文句通り、むごたらしい感じをマザ\/と出したら到底、正視出来ないだろう。文楽劇は、相手が人形なる故に、現実感のないと云ふ処にも  が有ろう。この次女房お妻が無筆にて字が書けないため、書置きを娘お半に口写しに覚えさせて、それを云はせる風変りな書置き、この鰻谷の有名な処に進む。

 (かくとは知らぬ銀八が八郎兵エ正伝なり)

只今の銀八は割合によく生来て居る様である。ではこれから、最終の一面、段切れまでに移る。

 (エ聞えぬぞよ女房共四ツ橋さしてのがれゆく)

これで二回に亘る錣太夫、新左エ門による鰻谷を終ったが、鰻谷の浄瑠璃及び錣太夫について一寸申上げておく。おきゝの通り、鰻谷の段は誠に陰惨なもので筋としては、余り感心しない。しかし、浄瑠璃としては仲々おもしろく節付けが出来て居る。先づ、まくらの隣座敷に弾出すのウタで一寸楽しめる。それからてんぼの重兵衛の出が面白い。この次の「徒髪」のところが聞かしどころ、それにつづくお妻のくどきが出て来て、それがすむと、「鐘諸共」で又ひきしめる。やがて「ヤキリ\/ナ」のおもしろい処が出て来る。かうならべてみると仲々きかせ処の多い浄瑠璃であるから、素人でも、チョイ\/稽古する人がある理由も合点せられる。錣太夫のことについては、既に度々解説されましたので省略するが、中年時代は、仲々の人気があったに拘らず、晩年は意外に振はず、掛合ひの、シンや端場に廻されて不遇な内に世を去った。やゝ安逸に流れた形が無いでもないが、折角の天分を持ちながら、誠に惜しいことであった。 (安原)

(錣太夫の花)
ふし廻しが廻って錣太夫の顔が現れると、文楽の客席は賑やかになる。好男子ではない顔、眼鏡を外した近眼の目のどこに魅力があるのか判らないが、兎に角花やかになる。風采を問わず、ぶらない様、何処かに親しみが持てたのであろう、強い腹と豊かな声量で楽しめる淨るりを聞かせてくれた太夫であった。舞台生活四十数年、只の一回も襲名も改名もしていない。伊達太夫が土佐太夫になる時、伊達太夫を襲がぬかと云われても受けなかった。尤もこれは土佐太夫は予想していたそうである。自身では綱太夫系の名を襲ぐべきだと考えていたようである。錣太夫は何でも語れる。従って何時でも何役でも代役の出来る太夫であった。しかし「壷坂」「野崎」「御殿」「袖萩」のような声ものに人気があったといへやう。(木村)

(酒屋)
大正十五年八月、愛宕山から「酒屋」を放送した。上汐町の酒屋の嫁のお園は夫の半七が三勝という愛人に夢中になっていたので一時天満の里方へ連れ帰られて居たが、半七が人殺のお尋ね者になり、父の半兵衛が代りに縄にかかったと聞いた親の宗岸は、子を思ふ親の誠を悟り、改めてお園を送り返した。こういう時宜になった時は。ほめられるより笑われるのが親の慈悲、という人情味のある文句の後で、半兵衛が持病の痰を咳き止んだところから、始まって居る。錣太夫は声量が豊富な為に、却ってうれいが出難いという辛い処があったようだ。三味線は新左エ門。錣太夫は、始めは今の清六それから団六時代の寛治郎が弾いて居たが、此の新左エ門時代は可なり永かった、新左エ門の三味線の音色は誠に宜いが、それが為高い調子で釣り上げている感があった。このレコードでも少々、甲がつかえて居る。(木村)

(伊勢音頭)
錣太夫が二十二才で大阪へ来て、明楽座で大序を勤めて居たとき、始めて認められたのは翌年正月の新作、「雪月花」の掛合でチャリ役を當てられた時だそうである。それから六十五才で亡くなる年の二月に「時雨の炬燵」の端場チョンガレが大評判であった。艶ものでは多少此人の癖が出るが世話ものでは一寸他に真似手はない。続いて十八番の「伊勢音頭」の油屋。之は今から百六十前、近松徳叟が芝居に仕組んだのあって、浄るりに直したのは名人団平だとという事である。筋はいい加減だが、流石に節付は立派なものである。そして、組太夫とか大隅太夫とか堀江系の人でないと、この浄るりは語って居ない。考えて見ると、成程堀江らしい淨るりである。油屋のお紺は愛人の貢が探し求めている折紙を、自分の客の徳島岩次が肌身離さず持って居るのを知り、身を委してでもそれを取ろうとする。岩次は又貢の持って居る_江下坂の刀を狙って居る。

 相に相生の、の処から道具屋節の辺は錣太夫の面目躍如たるものが、有る。岩次がつト気がつくと刀が違っている。貢を追つかけて取替えてくる役を料理人の喜助が買うて出たが、喜助は親の代から貢の家来だった事を萬野が気づき、又その後を追うが、レコードではこの「喜助ドーン喜助ドーン」が入って居ない。錣太夫は江戸っ子であったから、この喜助は実によかったので誠に残念で有る。

(油屋)

 (跡にお紺はうっとりと...  ...とは云へ是が何とマア)

錣太夫はどちらかといへば艶物語りとして評判をとってゐたやうである。しかし豊富な声量が却って義太夫節に大切なウレヒの味を少なくしてゐて、錣の特徴は外にあったのではないかと思ふ。この「油屋」でも恋と義理との間に悩むお紺の哀れな姿は浮び憎いやうである。

 (一夜流れの仇夢も......お紺様や堪忍しておくなはいやホ...)

錣はむしろ 次の意地悪な遣手の万野に技巧的な面白さを聞かせている。

(モ、今と今とてお鹿様が......テモマ面白さうに唄ひをるなア)

この貢の出からは名人團平の苦心の作曲が冴えるところで、伊勢音頭の手が巧にとり入れてある。

 (がそれに引替へ心ならぬは......暖簾の内へ入りにけり)

錣は義太夫語りに珍らしい江戸っ児の一人である。巻舌でいなせな職人を語って生々としてゐるが、メリヤスをあしらって面白く聞かす次の意見の件がこのレコードで省略されていますのはいかにも残念である。この作が歌舞伎から逆輸入されたものだけあって、この辺りはいかにも歌舞伎仕立て、しかも歌舞伎にならない詞のやりとりの面白さを聞かせている。

 (こなたの障子引あけて......色直しは直ぐに床入り)

錣の岩次は 阿波訛りで語って、大いに当てたことがあったが、先代大隅はこれを聞いて「あいつ 何やりよるのや」と話したといふことであるが、ここに錣らしい芸の生きたところがあったものと思はれる。

 (サア\/媒介役はこの北六......炎にむせる思ひなり)

「お福」といふ醜女をあらはすかしらをつかったお鹿が派手な振袖姿で手紙を顔に押当てゝあられもなく泣くところであるが、錣はここを割合アッサリと逃げてゐる。ここでお紺が心にもない愛想づかしをいふところが、「油屋」の聞きどころになってゐるが、又レコードに省略がある。

 (納戸に始終立聞く喜助......道を蹴立てゝ立帰る)

以上でこのレコードは終ってゐる。
錣の「油屋」は萬野、喜助、岩次などといふ脇役の技巧と写実の面白さを鑑賞していただいたら結構かと思ふ。 (大西)

錣太夫のものは すでに両三回 この時間に放送されたが、日重ねて「油屋」を聞いて頂くのは 之が彼の十八番の内の十八番であり レコードにも最もよく吹き込まれて居るからである。
淨るりは一般に悲劇的な場面を取り扱って居る。だから文章の意味を克明に生かして 丁寧に語れば 聞いてゐる方は感激するが、しかし数段続けてやられると肩が凝る。浄瑠璃のお客様は、授業料を出して大学へ講義を聞きに行く心算りでも無ければ 研究の為計りに行くものではない。大部分の人は 木戸銭を払って楽しみに行くのである。だからかたくるしい語りものゝ中へ たまには肩の凝りを ほぐしてくれるような 面白い語り口のものも喜ばれる訳である。リクリエーション的行き方が即ち錣の淨るりである。錣太夫は、床へ上って、客の顔を見てから、その日の淨るりを語る、又 素淨るりといふて人形の無い場合には、人形が無くてもよく分る語り方をする。暑い最中で、お客が汗びっしょりの時には、あっさりと涼しくやる。そういふ行き方であるから、此の人のは同じ淨るりでも 日によって長い時と短い時とがある。場合によると、文章にもない文句を その時の思ひつきで入れる事さへ有る。極端な例は、千秋楽の日に 萬野が、「さあ 切れ\/」と貢につめよる時に、その後へ「何ぼ切られても今日が切られ仕舞や」てな事を云うた事さへある。芸術といふ面から見れば飛んでも無い事かも知れないが、錣は自分は芸術家ぢゃない芸人だと思ってゐるのである。芸人はお客を喜ばしたらよいのだと信じてゐたとすれば これも面白い行き方である。
錣太夫は 此「油屋」を萬野をつかまへて語ってゐる。即ちピントを萬野に合してゐるのである。だから他の役々がピン呆けをしても関はぬといふ心算なのである。
名人といはれた法善寺の津太夫は「真世話ものを 毎日同じ事語ってゐるようでは 一人前の太夫でない」と云うて居る。勿論文句を変へろと云うた訳ではない。興太でも交へられる丈の余裕を持てといふ事なのであろう。私は錣太夫を 組太夫伊達太夫につぐ真世話ものの名人と思って居る。御本人が端場語りであったので 私の解説も端場に力がはいり過ぎた。早速レコードに移るが、時間の都合で お紺のくどきを飛ばし一間へかくれて貢への手紙を書いて居るのを 萬野が探しに来る処から始まる。

 (お紺さん\/は何処にぞと......涙かくして入りにけり)

此跡へ貢が お紺に心を引かれて やって参る。二階では 阿波の客が面白そうに 騒いでゐる。岩次や 北六といふのは端役であるが、この喜助どんといふ役は仲々難しい役である。錣太夫は 根が江戸っ子であるから、こんな職人のたんかは美事なものである。のれんの影より窺う喜助の処で、満場からの拍手喝采が聞えてくるようではないか。お鹿は 萬野に、たばかられて お金を横領されてゐた事を知らず むきになって貢を責める。

 (エゝ様々のたは言......訳があろう訳をいへ)

錣の自由自在な語り口、新左エ門の自由な三味線 その冴へ その音色 大したものである。この後へ 評判のおっかけ 「喜助どん\/」が あるのですが これはレコードにはない。誠に残念である。錣太夫は放送には縁の深い人で BKが三越にあった時分 この「油屋」それから「壷坂」「野崎」「酒屋」を語り 大正十五年八月には東京歌舞伎座へ巡業中 AKから「油屋」を五十分間に亘って放送して居る。 (木村)

(錣太夫とレコード)
竹本錣太夫は堀江座系統の太夫であり、文楽座へは大正三年に入座している。声量の豊かな腹の強い太夫であったが、その淨端場はどちらかと云へば品は悪かった様に思ふ。晩年は衰へたが、油の乗り切った大正十二、三年頃は随分人気があった。殊に東京生れのため素浄瑠璃の一座で上京した時などは随分鳴らしたものである。此の時代が錣太夫の全盛期ではなかったかと思っている。相三味線も現在の四世鶴澤清六が政次郎、徳太郎時代、又現在の二世寛治郎が竹澤団六時代、及二世豊澤新左エ門等で女房役には大変恵まれていた。レコードも若い時から吹込をやって居り、明治三十九年頃には既に米国コロンビア盤に三味線豊澤竹三郎、即ち今の七世廣助や猿二郎即ち後の五世仙糸等で入れている。此の頃のレコードを聞いても既に相当の技量を発揮しているので、若くから注目された太夫であったのであろう。然し、此の時代から既にどことなく品の悪さは抜けなかった様である。然し、中々妙味のある浄瑠璃を語っており、明治四十二年頃吹込みした「白石噺」のレコードの面白さは今聞いて見ても棄て難い味を持っている。晩年はどうも振はなかった様で、之はと云ふ面白い浄瑠璃は聞けなかった様に思っている。只チャリの端場には独特の味を持っていて死んだ年の昭和十五年の二月「紙治」の炬燵の前の法界坊のチョンガレは無類の面白さを持っていた。こう云ふチャリの端場には確かに名人の域に達していた。その年の昭和十五年三月に発病して四月文楽座の持場は「妹背山」の御殿の口と「鰻谷」の端場であったが、私の聞いた日は出演せず、只今の六世住太夫当時の文字太夫が代役していた。それ以後床は上らずその年の十二年になくなった。晩年振はなかったとは云へ、なくなったとなると何だか歯が抜けた様に文楽座の床に一抹の淋しさを加へた。一つの持味のあった太夫であったと言へやう。 (安原)

(紙治)
「紙治」炬燵の場は、昭和三年頃の録音と思ふが此の頃からは独特の癖が益々出て来て、段々悪くなって来た様に思ふ。然し、此の「紙治」丈はマア\/好い方で割合にすんなりとしている。どうも錣太夫に対して悪口が大分多くなったが、然しその澤山あるレコードをじっと聞いて見ると大変癖があるものゝ、流石に本格的に稽古した芸である事は間違いなく、一つも間違った事は語っていない。唯自分勝手の思ひ入れや、例の語尾を引く癖が大変に誇張されて表面に出るのでその好い部分が此の悪い面に消されているので大変損をしている。此の点錣太夫の為めに弁護せねばならないと思ふ。反対に好い部分の為めに悪い部分が消されていたら大した物になっていたと思ふが、これは錣太夫の為めに甚だ惜しいと思ふ。此の私の観方いや聞き方が間違っているかどうか、一つレコードを御聞き下さい。三味線は名人豊澤新左エ門である。

 (すぐに佛なり......打守り\/)

晩年の錣太夫をお聞きになっていた方には、成程これはよく出来ていると感心なさる事と思ふ。

 (エゝあんまりぢゃ......誠なり)

三味線新左エ門の冴えた撥捌きも決して聞き逃しの出来ない処である。新左エ門は
明治四十年頃、二世竹本春子太夫の相三味線として此の「紙治」を吹込んだレコードがあるが、このレコードより二十年前であるから、素晴らしい美事な三味線を弾いている。

 (オゝ尤もじゃ......小春さんの事は急なこと)

此の次の一面で終りで此のレコードは三枚六面丈しかない。こんなに上出来ならも少し澤山吹込んで呉れていたら好かったものをと大変惜しい気がする。

 (それ其小判五十両......情ぞ篭りける)

錣太夫の「紙治」と云へばこんな物である。最初に申上げた様に一種の癖が強く出ないから、錣太夫も今少し人気のあった太夫となったであろう。此の「紙治」の原作は近松門左エ門ですが、今一般に語られている紙治は安永七年四月近松半二の改作になるものである。文章及人情としては近松門左エ門の方が好い様に思ふが、何分門左エ門の方は節付が残って居らず。反対に半二改作のものは此の場を語った初代竹本染太夫が実に名演で大好評であった為めか、作の悪いにかゝわらず今日迄傳わっている。錣太夫の「紙治」のレコードは、此の外大正十年前後に鶴澤徳太郎即ち今の四世清六で吹込んだものと二種類位あるが、矢張り今のが一番好い出来ではないかと思ふ。錣太夫と云ふ人は身体が肥つていて二十貫もあった様である。ひどい近視であった為め床に上ってもその眼付が一寸変っていて近視独特のつむったり大きく開いたりした目付をしていて、それに大きな顔で語り込むと油汗が出てお世辞にも品の好い姿とは言へなかった。舞台を済ませて帰る途中でも皮の鞄をぶら\/させ、帽子も相当痛んだのを無雑作にかぶって、芸人と云ふ形はどこを探しても見当らない。どこかの高利貸の様な格好であった。今此のレコードを聞いているとあの錣太夫の平家蟹の様な顔が目前にありありと浮び、そぞろ懐しさに堪えない。さんざん悪口をついたが、あの豊富な声量の、偲演する錣太夫の姿を偲びつゝ私の解説を終る。 (安原)

(容貌と性格)
五世竹本錣太夫は、今の山城少掾と同じく、東京出身の太夫で、子供の時から義太夫好きで、この道に這入り、十四才の時に竹本識太夫の弟子となって識子太夫と名をつけて貰った。この師匠の識太夫と云ふと関西の人には耳遠いだらうが、猿太郎から猿糸になった、今の播磨屋、吉右エ門のチョボをして居る岡太夫のお父さんで、後六世岡太夫から大綱太夫になった人である。この識太夫の弟子になって、子供の時から寄席を廻った。声はよし芸は達者であるし、なか\/人気があったさうであるが、義太夫だけは東京では駄目だと悟り伊達太夫、後の竹本土佐太夫が東京に巡業に来た時、事情を訴へてその弟子にして貰ひ、大阪に出て修業することになった。しかし当時は師匠の出て居た彦六稲荷座が一寸経営がうまく行かなくなりかけた時で翌年六月には潰れてしまった。しかし同志が工面してやっとその年の十一月堀江の廊と云ふ土地を背景に明楽座をつくったが、翌明治三十二年一月明楽座の第二回興行の時、千本櫻の道行にはじめて錣太夫の名が番附にのった。これが人形浄るりの舞台にたったはじめてである。それ以来十数年間彦六系の座をつとめ、文楽座へは師匠と共に大正三年入座している。そして津太夫、土佐太夫、古靱太夫の所謂三巨頭時代に駒太夫と共に第二陣を承り、昭和初年のあの三人三様のそれぞれ持ち味のちがった淨るりに、錦上更に花を添へた。さてこの錣太夫と云ふ人は声の豊かな、腹の強い太夫であったが、どちらかと云ふと品のよい淨るりには向かない人であった。だから気品のいる先代萩の御殿や、風格のいる忠臣蔵の四段目のやうなものは、惨怛たるものであった。きれいな声だが癖のある声で、世話ものには向いて居たが、道行ものや、大掾以来勤めている妹背山の雛鳥は別として、お姫様には向かない人であった。つまりいきな方はやれますが上品なものには具合の悪い人であった。この人の得意な淨るりを思ひ浮べて見ると、「桂川」の帯屋、「伊勢音頭」の油屋「廓文章」の吉田屋「明烏」の山名屋「三勝半七」の酒屋、かうあげて来ると、廊と商家の屋号ばかりが並んだが、こんな所にも錣太夫の人柄が浮彫にされて来るやうにも思はれる。よく肥えた巨大な体と、迷惑そうな平家蟹のやうな顔、ぷく\/して居たので「パン」と云ふ綽名があったが、その上、もっとひどい悪口「うらやん」と云ふあまり香ばしくない名前まで頂戴して居た。そんな見事な顔をして一寸癖のある甘ったるい声で道行や艶物を語るのであるが、つい聞きほれてしまふものの、偶には嫌らしさを感ずる事もないではない。ところが茶利ものとなると顔と云ひ性格と云ひうってつけで、「帯屋」の儀兵エや「笑薬」の祐仙や、「紙治」のチョンガレの傳海坊などは天下一品で、つくろはず、こしらへが実に面白い淨るりで、きゝては腹を抱へて笑ったものである。それに当意即妙の頓知頓才のある人で、客を見て淨るりを語り、旅興行の素淨るりなどの時には、合邦を一時間半にでも四十分にでもあだやかに語る事の出来る人であった。語る所は語り乍ら、客によって、客のうけ方によって自由に文句も変へた。丸亀に行った時一向客が這入らないので思ひ切って半額の料金にすると、どっと這入って小屋は超満員、二階の人は便所へも行けない有様、中には屋根から飛ばす人もあると云ふ有様であったが、さて大井川の段を語る時になって錣太夫「名に高き街道一の大井川篠を乱して降る雨に」と語る時を「名に高きすやまのきんちゃん大喜び」とやってのけた。すやまと云ふのは割引のことで、きんちゃんと云ふのはうすのろの客のことである。知らぬが佛のお客は自分の悪口を云はれて居るとは気がつかず、わしっと喜んで居た。切り目\/はしっかり語り乍らもこんなに余裕があったのです。子供の時からよせに出て居たので、舞台度胸と云ふものがあったのだらう。しかし一面なか\/のこり性の研究家で、寛治郎(後の六世寛治)の話では、何でも御大典の時だったさうであるが、引抜に「乗合万才」を入れる事になって誰がよからうと云ふ事になった時、越路太夫の声がかりで錣がえゝと云ふ事になって錣太夫が語る事になった。錣太夫は大へん喜んで、義太夫は常磐津の真似は出来んけれど、せめて林中の味はひだけは知って置かなければと、毎晩レコードをかけてじっと聞いた。とりつかれたやうに聞きつづけた。さてその初日になって錣太夫が、「建初の柱をばョ」と語ると、お客さんがワーッときた。何でもないやうに語りながらも、錣太夫の淨るりの背後には、かう云ふ血のにじむやうな苦心の裏付があったのである。それから錣太夫はあの大きな体で、あの顔で、よくぶつ\/と小言を云ふ人であった。弟弟子がなってないと云ってはぶつぶつ、入りが少ない時には少ないと云ってはぶつ\/、入りが多い時には多いでぶつ\/、祝儀が少いと云っては、ぶつ\/、多いと云っては、これもぶつ\/、何か、ぶつ\/云はぬとすまぬ人であった。それで、「まゝつぶ」と云ふ綽名がついた。ごはんつぶを水につけるとふくれるからであろう。どの綽名にしてもあまり品のよいものではない。然しあれでなか\/見かけによらず誠に親切な人で、この間死んだ大隅太夫も、今の清六もこの錣太夫の厄介になった事があったと聞いて居る。この人は時々思ひも寄らぬ傑作を出した。その一つの例をあげよう。四国巡業の時、あの有名な大ぼけ小ぼけを通って、池田まで、次の興行の為、急に出なければならぬ事情になって、自動車にのることになり、六人乗って十三円五十銭と云ふ当時としては大金を出してやとった。一行は師匠の土佐太夫と吉兵エ、錣太夫に寛治郎、それに人形の玉蔵と道具方であったが、雨のあとで、崖がくづれて山のせまい道に大石がころがって居たので一同皆おりて石を片附けることになったが、錣太夫だけは、「十三円五十銭の割前出して乗って居るのやから、わて降りまへん。おちて死んでも構ひまへん」と云って一人車中に頑張って居たと云ふことであるが、それがなか\/憎めないのが錣太夫の特色であった。断崖絶壁を走る自動車上で皆胆をつぶして青くなって居ても、錣太夫だけは平気なのである。 (吉永)

(紙治)
五世錣太夫の天網島時雨の炬燵 紙屋内の段。三味線は、二世豊沢新左エ門。

 (すぐに佛なり......打守り\/)

「時雨の炬燵」は、近松門左エ門の「心中天網島」の改作ものであるが、この月の上旬、近松生誕二百年記念に竹本綱太夫によって原作通り語られた。原作では「まだ曽根崎を忘れずかと呆れ乍ら立寄って蒲団を取って引きのくれば、枕に傳ふ涙の瀧身も浮くばかり泣き居たる。引き起し、引き立て炬燵の櫓につき据え」とおさんはだいぶ強い女性になって居る。これから有名な、おさんのくどきになる。

 (エゝあんまりぢや......誠なり)

この硯川も、とうの昔に埋め立てられて、今は市電がその上を走り、堂ビルの向ひに硯川のあとと、今はなき木谷蓬吟の筆で誌された記念銅版がのこって居るだけである。錣太夫の艶のある語り方と新左エ門の冴えた撥捌きは、女房おさんの強い恨みも、文楽の舞台では、文五郎の人形と共に一つの美しい絵模様となって繰りひろげられてゆく。さて、これから治兵エの詞になる「アノ不心中物何の死なうぞ」の怒り、緩急自在な詞に気をつけて聞いて頂きたい。

 (ハーア、尤もぢゃ......急なこと)

もうこんなおさんの気持は、若い方にはわからなくなってしまっただらう。時代だと思ふ。この金をつくる為に着物を質に入れるのであるが、箪笥から子供の着物まで取り出して、ふろしきに包む時に、人形の舞台では珊瑚のかんざしを髪から抜いてそっと紙に包んで涙をふく所が人の心を打つ。

 (それその小判......情ぞこもりける。) (吉永)

(吉田屋)
大阪の新町で金盛を謳はれていた扇屋の夕霧といふ太夫が亡くなった時、大阪の街はこの噂でもち切りだったといふことである。世の中が穏やかで、今日のやうにニュース種といふものが少なかった時代だった故もあろうが、廓の一傾城であった夕霧の人気といふものが、今日の映画や歌劇の女優とは比べものではなかったことが判る。この夕霧の亡くなったのが延宝六年、正月六日であるが、これを早速芝居に仕組んで荒木与次兵エ座では、翌月二日初日で「夕霧名残の正月」と題して上演した。この伊左エ門には上方の二枚目役者として有名だった坂田藤十郎が扮して、非常な大当りをとったので、この後、歌舞伎にも淨るりにもいろ\/な「夕霧劇」がつくられた。今日の「廓文章」は正徳二年(一七一二年)竹本座で初演されたといはれる近松門左エ門の「夕霧阿波鳴門」を改作したもので、殆んど原作そのまゝを流用して、ただ終りに夕霧の身請の件をつけて一段に纏められたものである。師走も押つまったある日、新町九軒の吉田屋では恒例の餅搗ききの日であるが、表にはメ縄、門松を飾り、大屋敷には床の間に鏡餅を供へ、餅花が天井一杯に吊されて、迎春の準備が全くとゝのったといふ舞台面であるから、師走狂言とは限らず、初春の興行にもよく出る狂言である。夕霧と深く契った藤屋伊左エ門はこの為に勘当となった身を反故染の紙古に包み、冬編笠で面をかくして吉田屋を訪れるが、吉田屋の亭主喜左エ門の情によって夕霧に逢ふことになる。座敷に通されると、昔の我が侭が出て、とう\/不体臭れて寝たふりになるので、喜左エ門は席をはづす。

 (過ぎし夜すがの連弾きを......済まぬ心の中にも暫し)

「ゆかりの月」の唄を聞いていると、そぞろ昔が思ひ出されるが、夕霧はなか\/姿を見せない。業を煮やした伊左エ門は帰らうとすると喜左エ門のおいて行った羽織が爪先にかゝるので、思ひ直して、襖のあひだから次の間をのぞく。夕霧の姿は見えない。更に次の間をのぞくといふお芝居があって、やっと夕霧の姿を見付けると、あはてゝ元の所へ駈戻って、寝たふりをする。やがて夕霧が病上りの態で紫の鉢巻をしめて姿を見せる。

 (すむはゆかりの月の影......そらさぬ態にて居たりける。)

「オゝ万歳傾城の因縁知らずか」と伊左エ門は万歳の眞似事をしながら、まだ動くことも自由にならない夕霧を蹴るやら、扇をもってからかふやら、様々のわゆくを始める。これから、お待ち兼ねの夕霧のくどき(サワリ)になる。

 (夕霧涙諸共に......ほんの女夫ぢゃないかいな)

人形の舞台では、この夕霧の口説にも伊左エ門は耳をかそうとせず、炬燵に入ってソッポを向いているので、夕霧が、これへ倚り添ふ。伊左エ門は炬燵をもって上手へのがれて行くおかし味がある。これを追ってゆくところの三味線が次のレコードの初めに少しばかり入って居る。

 (妾に恨みがあるならば......エゝ心強や胴慾な)

夕霧は伊左エ門に取縋るが、なほも邪慳にするので、とう\/癪を起す。伊左エ門はあはてゝどうすればよいかと戸迷った末に盃に酒を注いで呑まさうとする。今度は夕霧が呑まうとしない。盃のやり場に困って、自分が呑うとするところで、夕霧が、その手をとって、みな迄呑ませず、自分の口へ持って行くところで二人の心はうちとける。こゝで舞台の空気は一変して賑やかに喜左エ門夫婦、太鼓持、仲居が出て、伊左エ門の勘当のゆるされたことを報せて目出度く段切となる。

 (気強い心とかこち泣き......見る人袖をつらねける) (大西)

(錣太夫)
錣太夫が淨るりの手解きをうけたのは、七才の時といふことになって居り、識太夫の弟子となってから、大阪へ出て伊達太夫(後の六世土佐太夫)の預り弟子となった。十四才から二十才迄のあひだに、東京の各寄席をまはって、すでに若手太夫として人気を博していた。錣太夫とは五ッ六ッ年若であったが、同じ時代に活躍した源太夫(七世)や駒太夫(七世)のことを思ひ出す。源太夫も五才のころから淨るりの片言をしゃべっていて、六世源太夫の弟子となって、稲荷座へ出演する迄にはすでに子供太夫としての人気者であった。また駒太夫も、六才で「酒屋」の素語りが出来九才の時には地方巡業の仲間に加はり、女義太夫の旅に出た留守の道頓堀の席へ出演しては小富太夫\/ともてはやされていたのである。これらの三人がそろって巧者な淨るりを語り、それぞれの個性をもっていたのは幼少の頃の修業が根底をなしていたのかと思はれる。とにかく同じ修行といっても、一つの芝居で修始した人は豊富な経験があって、正規の学校をつまづきなしに進んだ人のやうに、素直であっても、どこか浮世の風にもまれていないひ弱さがあるやうに思はれるものである。しかし考へやうによっては世に出るやうな人の蔭には一般には知られない落伍者が沢山あるのであって、それは実に選ばれた何人であるかも知れない。今日では淨るりの修行道場としては「最高学府」の文楽座一つといふことになって了ひ、私学といふものは、二流三流と下っても一つもない。特殊な個性をもった太夫がでなくなったのも無理はない。錣太夫に対しては、私ども若い時には兎や角の批評をなしたが、今日この人の残した数あるレコードを聞けばやっぱり貴重な存在だったと思ひ直すのである。錣太夫がある旅興行で「寺子屋」を語って居た時、田舎のお客がしきりに感心して聞いて居たが、まるで芝居のやうだと云ったのを耳にして、例の松王丸の後笑ひのところへ来ると、「源蔵殿 御免下され」と叫んで泣いたといふのである。「源蔵殿 御免下され」といふやうな詞は淨るりの文句としてはないのであって、歌舞伎ではこれを入れる。それがまるで芝居のやうだといはれたので、ツイいってみる気になったのであらう。また東京で「喜内住家」を語って居た時、錣のよく知っている御茶屋の女将で最近、男をとりかへたものが客席に出るのを見付けて、身体をのり出して、「女は二人の夫をもたず」と声を大にして語ったことがあったといふ。これは喜内が重太郎に侍は二君に仕へるものではないことを戒めた詞の中に、チャーンと入っている。錣太夫の淨るりには余裕があったといふか、一生懸命に淨るりを語っている時でも、このやうな当意即妙が飛び出したのである。 (大西)

(明烏)
それではこれから「明烏」のレコードをかけやう。新内節で売った淨るりであるが、新内で当り、歌舞伎で当ったので、それを義太夫節に改作されたものである。そして義太夫節の方には髪結のお辰、手代の彦六といふ、新内の方にはない二人の人物が書込まれているので、これを錣太夫一流の話術で活かしているところを聞いて頂きたい。

 (雪はまだ、残りて寒き春の嵐......堰かれて、今は山名屋の)

舞台一杯に忍び返しのついた黒板塀があって、正面に山名屋の二階が組まれている。花魁浦里と禿とはいひ乍ら、実は吾子のみどりとがいるところへ、恋人の時次郎が忍んで来るのであるが、次のレコードには、これを省略して、わけ知りの髪結お辰が来て、髪梳きにことよせて、一人の男に打込んでいる浦里を戒めるところになる。このお辰が錣太夫一流の話術で面白く聞かせられる

 (浦里にさへ恨めしく......提げてお辰はいそぎ行く)

お辰は切戸口からツツと時次郎を忍び込ませて、帰って行く。時次郎と浦里が、久しぶりに逢っているところへ遣手のおかやが浦里を呼びに来るところで舞台は雪の庭先になる。山名屋の亭主勘兵衛は、時次郎の行方を白状せよと折檻するが、遊女の雪責めなどは今日の御時世にはどうかと思ふので、少しばかりお聞かせして次に移らう。

 (浦里見るより走り寄り......おかやはひッとしてコレ彦六さん)

手代の彦六は「又平」といふ可笑味のあるかしらを思ひてあるが、この作より八十年ほど前に出来た「城木屋」の番頭丈八を眞似たものらしく、この三枚目の手代に錣太夫の特長がある。

 (おおはマアなんで浦里へ......勝手へ走り入る)

この為、時次郎があらはれて浦里とみどりを助けて逃れようとするところへ、独り呑み込みの彦六が諸肌ぬぎの赤の襦袢に尻端折り、大きな風呂敷包を背負って出て、暗がりの中で浦里を探し求める段切のパントマイム(黙劇)を想像してお聞き下さい。 (大西)

 (見や子彼方の二階より......後の噂や残るらん)

(宿屋)
今日は錣太夫の朝顔話宿屋の段。此の淨るりは文化六、七年頃読本として作られたものであるが、それから二十年余り経った天保三年、正月に大阪いなりの芝居で上演せられた。当時の淨るりは、次々に新作ものをやったものでものであるが此の、「朝顔話」は非常な好評であったので、その後天保九年、弘化元年、弘化三年、嘉永二年には、五月と七月に舞台に出て居る。嘉永三年正月には「増補生写朝顔話」と改作せられ、更に、嘉永五年、六年、安政二年、文久元年、二年、元治元年には、五月と九月、明治以後は数え切れぬ程上演された。尤も近頃は、建狂言でなく、宿屋と船別れ位であるが、ラジオでは今年の六月七月の水曜日の文楽の時間に、大序から大井川迄殆んど全部を放送したことがある。鎮西の探題、大内家では、殿の御帰国の先触れとして、駒沢治郎左エ門と岩代多喜太の両人が出発し、途中東海道島田の宿の戎屋徳右エ門方に泊る。岩代は悪人の一味であって、何とかして駒沢を亡きものにしようとし、萩野祐仙に命じ、しびれ薬を調合させるが、亭主の徳右エ門が奸計の裏をかき、笑ひ薬と取りかえた為大失敗をやる。之が端場の笑い薬の段である。駒沢がふと衝立を見ると其の張り交ぜに思いがけなくも、以前の愛人、秋月の娘深雪に与えた朝顔の歌がある。そこで、之には何か様子があろうと思い、その歌の当人を呼びよせる。

 (むざんなるかな秋月の......)

只今の( )の深雪は身に積る。という處が非常に難かしい處であり、あのえらかった攝津大掾でさえ若い寺分に、「朝顔の出であんなにお客に手をたゝかしたらどもならん三味線が弾かれん」と、いうて三代目吉兵エから叱られ、また師匠の春太夫からは「もっとさら\/語りんかいな」と云われたそうである。娘深草は身に積るという文章の間で、哀れを出すというのが身上なのである。

 (やう\/座して手をつかへ......)

錣太夫は東京生れ、東京育ちでありながら、義太夫でいうテッ訛、東京弁は殆んど聞かれない。大阪へ来てからは大阪生れの娘等について、大阪弁大阪の音を始終研究していたさうだが、これは大変な努力であったと思ふ。かと思うと土佐太夫の眞似をしたのか、うつったのか、次の琴歌の始めの「露の」は土佐の音のようでもある。三味線は、豊沢新左エ門、琴は新左エ門の娘婿の新太郎である。

 (露のひぬ間の......)

始めに反対して居た岩代も之を聞いて居て、「琴といゝ器量といゝ、いやも感心」などと乗って来る。これから深雪の身の上話を語るくどきになる。泣いて明石の風待に偶々逢いは逢い乍ら、という当て場があるが、レコードになって居ない。目の見えぬ深雪は、駒沢が目の前に居る事を知らず帰って行く。駒沢は岩代が座を外した間に亭主にも一度朝顔を呼びよせてくれと言ふが、既に遠方へ行った後なので、残念乍ら予定の出立の時間に立って行く。増補ものゝ方では、駒沢を床の下から鎗で突いてくる場面がある。

 (深雪は何か気にかゝり......)

川越が、「俄の大水で川は止った川止\/」と言ふが、原本では笑止\/笑い止まる。即ち気の毒\/の意味になって居る。

 (思へば此の身は先の世で)

こゝへ奴の関助がかけつけ、一方徳右エ門が秋月家相思の家来である事が分る。そこで徳右エ門は甲子の生れである自分の生血で深雪の眼病を治させる。此の淨るりの最后の場面は、駒沢屋敷の段であって、こゝで二人に目出度く結ばれ、岩代多喜太は悪事が発見して首を落される。 (木村)

(恋娘昔八丈)
享保十何年かの話である。江戸新材木町にあった。材木問屋白子屋庄三郎の娘おくまといふものが、持参金つきの聟をきらひ、手代の忠七とよい仲となり、下女を唆かしてその聟を殺さうとして失敗した。この裁判のうけもちがお馴染みの大岡越前守でおくまと手代は獄門、両親や下女もそれぞれ刑に処せられた。この事件があってから、四十八年経った安永四年(一七七五)松貫四といふ人達が淨るりにして江戸外記座に上演されたのが、これから送りする「恋娘昔八丈」である。「昔八丈」はこのやうな事件を萩原家のお家騒動にはめ込んで書かれた五段つづきの淨るりであるが、これをすっかり通して上演したのは初演の時だけで、その後は「城木屋の段」とか、「鈴ヶ森の段」とかだけしか出て居ない。しかしよく流行った淨るりであったといふことは「闇の夜にお駒とお駒行き当り」といふ川柳が出来たことでもうかがへる。淨るりの方の主人公、お駒は実話のやうな淫妻で、そして今日の社会面を賑はすやうな皆殺しをする無軌道な女ではない。萩原の家臣尾花六左エ門の座敷に奉公しているあひだに、その令息才三郎と言交はして、男が勘当の身となり、髪結ひにまで落ちぶれているにも拘らず、時偶の逢瀬を楽しんでいるといふ女に書かれて居る。城木屋の家逢を挽回する方便として、持参金のついた聟を迎へたところ、これが萩原家の宝であった勝関の茶入の盗人ではないかといふことになって、恋人のためこれを探らうとする。ところが一部始終の様子を窺ふため縁の下に忍んでいた才三郎が見付けられ、聟のため組伏される場合になって、お駒は堪りかねて、有り合はした刀を以て聟を刺し殺すことになって居る。このお駒が聟をとることを知った才三郎のために、不実をせめられるところがあって、「そりゃ聞えませぬ才三さま−」といふクドキになる。これがこの淨るりの聞きどころでもあり聞かせどころでもある。江戸の町では淨るり好きの誰れも彼れもが、「そりゃ聞えませぬ−」と口誦んで歩いたのであらうが、月のない夜の町角で、「そりゃ聞えませぬ」でぶつかる結果になったのを、川柳子は、「お駒とお駒行きあたり」−とうまい表現を試みた。と、このやうに言ふと、お俊傳兵衛の「堀川猿廻し」にも「そりゃ聞えませぬ傳兵衛さん−」があるぢゃないかといはれる方もあらうかと思ふ。しかし、「城木屋」の方は「堀川」より八年も前に上演されているもので「そりゃ聞えませぬ」は「城木屋」の方が本家であるが、「堀川」のために軒を貸して母屋をとられた結果となったのであらう。 (大西)

(綱太夫と鈴ヶ森)
「鈴ヶ森」は書卸しの太夫は豊竹百合太夫となって居るが、別にこの百合太夫の風格が傳ってはいるといふのではなく、それが今に流しているのにはこんなお話がある。五世竹本春太夫が、門弟ばかりを引連れて、大阪の北の空地へ小屋を掛けて人形浄るりを語ったことがあった。この時江戸で弟子にした識太夫といふものが、頼って来たが、識太夫は大へんな道楽者で、この時も尻切絆纒一枚を来た身すぼらしい姿形であったといふことであるから、師匠はまだ不身持が直らぬかと叱りつけたが、仕方がないので、古着物を一枚なへて、今夜からおれの追出しでも語れといふことになったといふのである。ところが、その時の追出しはこの「鈴ヶ森」で毎日若い弟子が交替で語っていたが、これを識太夫が語ると、その夜の聴き手も楽屋内も、その巧妙さに驚嘆するばかりで、危く師匠の淨るりを吹飛ばさんばかりの成績だったといふことである。これから、われも\/と「鈴ヶ森」を語るようになったといはれて居る。識太夫は江戸生れ、左良屋の息子で、全身に刺青のあらうといふ小意気な江戸っ児で、非常に美しい声の持ち主であったといふから、この江戸製の「鈴ヶ森」がよく出来たものであらう。この識太夫は後に六世竹本綱太夫を継いで居るが、明治十六年四十四といふ若さで亡くなった。 (大西)

 (急ぎゆく、人の身の......不便やお駒は夫の為)

浅黄幕が落ちると舞台はお定まりの髯題目の石塔のある鈴ヶ森の仕置場で、見るからにもの\/しい竹矢来が巡らされている。やがてこゝへ江戸の町を引回しにされたお駒が傷々しく後手にしばられたまゝ、チンバの裸馬の背にのせられて出る。「城木屋お駒」と記した幟や、罪状を書いた札をもったもの、抜身の槍をかついだものに前後を取囲まれて、矢来の向ふを上手から下手へ進む。淨るりは物悲しい説教がかりである。

 (かゝる憂き身の縛り縄......二親に嘆きをかけ)

お駒は白無垢に黄八丈を重ねていたといふ。人形も黄八丈に荒縄でしばりあげられているので、左遣ひは不用であるが、そのために主遣ひがすべて片手遣ひで仕事をしますのがむづかしい。文五郎などは、それでいて実に美しい形をふんだんに見せてくれる。錣太夫も三味線の新左エ門も美しいところを聞かせてくれる。

 (また親々に従へば......濡れぬ袂はなかりけり)

竹矢来にとりついだ両親との名残を惜しむ件があって折からかけつけた才三郎が番頭丈八の口からお家の重宝の茶入を盗んだものはお駒の殺した聟の喜蔵であることが判り、又喜蔵と丈八は才三郎の親の敵と知れて、お駒の命赦免の状を持参することによって、この「黄八丈」はめでたし\/で終る。この「鈴ヶ森」は昔のレコードであるため、音色が損じて聞き苦しかったことゝ思ふ。 (大西)