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名人のおもかげ資料 四世竹本大隅太夫

         

使われた音源 (管理人加筆分) 
ビクター 仮名手本忠臣蔵 三段目 四世竹本大隅太夫 鶴澤道八               全曲(国立国会図書館 歴史的音源 図書館限定)
ビクター 近頃河原の達引 堀川猿廻しの段 四世竹本大隅太夫 鶴澤道八           全曲(国立国会図書館 歴史的音源 図書館限定)
ニットー 花上野誉石碑 志渡寺 竹本静太夫 八世野澤吉弥 (鴻池家依嘱盤)
ビクター 源平布引滝 松波琵琶の段 四世竹本大隅太夫 鶴澤道八        参考音源  全曲(国立国会図書館 歴史的音源 図書館限定)

     

放送記録 
403回 昭和27年7月14日 解説:安原 四世大隅太夫と鶴沢道八の「忠三」と「堀川」
439回 昭和27年9月18日 解説:木村 四世竹本大隅太夫の「志渡寺」(一)
440回 昭和27年9月25日 解説:安原 四世竹本大隅太夫の「布引滝」(一)
443回 昭和27年10月17日 解説:木村 四世竹本大隅太夫の「志渡寺」(二)
453回 昭和27年11月11日 解説:安原 四世竹本大隅太夫の「布引滝」(二)
489回 昭和28年7月12日 解説:木村 四世竹本大隅太夫の「忠臣蔵三段目」

      

四世竹本大隅太夫は 本名を永田安太郎 明治十五年十月二七日 静岡縣の生れ。
祖父が趣味で義太夫を語り、父が三味線を弾く上に、父の弟が有名な三世鶴沢清六となった人で有る。 こんな環境から、子供の時分から義太夫の稽古を始め、東鳳といふ俳名で素人上りで評判を取った。
二十一才の時 叔父の清六が静岡へ立ち寄った際 之について大阪へ出て、三世大隅太夫の門にはいり静太夫の名を貰った。
 明治三十七年 初めて舞台へ出る。師匠竹本大隅太夫によく仕へ 師匠が大正二年台湾でなくなる時、最后迄一緒にいた。其の後 三世竹本越路太夫の門に入り 文楽座に出勤 昭和二年三月、四世竹本大隅太夫を襲名。本年五月文楽座で白石噺の掛合、亭主宗六を語ったのが最后で二十七年七月十二日七十才でなくなった。

(大隅太夫)
大隅さんが亡くなって、もうおっつけ百ヶ日であろう。惜しい太夫を 厄介な病気にとりつかせたものだ。素朴な芸一途のかたくな、しかし憎めぬ人であった。先代大隅は、名人団平にたたきあげられ そのおかげで、後に文楽座の攝津大掾と並び称せられたが晩年は病気の為に発音が不自由になり、自身が總卆であるべき近松座からも見返されるやうになった氣の毒な人である。その時 偶々台湾の仕打から交渉があったので 大正二年七月団平を継いだ鶴沢仙左エ門をつれて台湾に渡った。高弟の春子 伊達、錣も行を共にせず、僅かに錦太夫、静太夫他 まだ幕下級の二人が扈従したに過ぎない。しかし台湾では非常な大当たりであった。先代はそれに氣をよくして 破竹の勢であったが 思いがけなく台南で病氣をし、壯途空しく六十二才で 哀れ異境の土となった。 三味線の団平が遺書と骨を抱いて帰阪し 清水町の本宅で、之を開封すると後継者は多くの先輩を置いて 弱冠三十三才の静太夫の名がたどたどしい文字で書かれて居たのである。
静太夫はこんな訳で その後十五年で四世竹本大隅太夫となった。そして十七回忌に当る昭和四年二月に 台湾へ渡り全島を巡業して台北と台南に立派な石碑を建立して帰った。こんな意味で彼は実に 師匠孝行といへる。その因縁といはうか。自分は自身の子供の孝行を享けて 立派な病室で 家族知己 数十人に取り巻かれながら 静かに亡くなったのである。昨年長男の学生野球で有名な永田三郎君が、父の身体を案じ もう舞台を休まれたらどうかとすすめた。常はやさしい大隅太夫は之を聞くなり「乃公に浄瑠璃を止めよといふのは 乃公に死ねといふ事か」とどなりつけた。医者の目から見ると昭和二十四年八月北海道巡業中に軽い脳溢血を起していたやうで 寧ろ今日までよく続いたと思へる。この人の身上は詞である。芝居の科白にならず 造らず巧まずに自然に出る詞 これが真似られないのである。言葉の間に気合があるので ラジオでは一寸解し難い處がある。例へば 最后の放送の沼津であるが「そんなら今のお方は 私が為には兄さん」とお米がいふと父の平作は「オゝ我子の平三であったかい」となるが、大隅は「私が為には兄さん ー 平三」といふ。本にある通り我子の平三であったかいなどとは云はない。しかし、これを図いている方では眞に迫って どっとくる。まあこんな行き方である。(木村)

(杉山其日庵)
四世竹本大隅太夫は、大体時代物がよかったが、尤も 世話物でも 梅川忠兵エ封印切とか 橋本の様な傑作もあったが大体に於て時代物が 声柄にも合ってよかった。三世竹本大隅太夫 即ち先代の大隅太夫即ち三世大隅は芸の上では攝津の大掾と並び称せられる名人で 今日の壷坂を語り初めた太夫だが その行動には常軌を逸した処があった。元来堀江系の太夫だが、此の堀江を離れて明治三十六年文楽座へ入座した。云はば同志を見捨てた事になるので、堀江系の人々には甚だ不人情な行動であった。
此の大隅のひいきの旦那に杉山茂丸と云ふ人があった。政界の黒幕で、又大の義太夫ファンで 攝津の大掾や大隅を殊にひいきにしていました。当時杉山の旦那と云って 此の道には大変な勢力もあり 又著作に「浄瑠璃素人講釈」と云ふ実に立派な本も出て居り 今の山城の少掾さんや 清八さんも大変御世話になっていた。で三世大隅が文楽座へ走った事は余りに常軌を逸していると云って 杉山さんも大変不満であったが 大掾も大隅も五世春太夫の門弟で 同門でもあり 行く行くは 摂津の大掾の次の紋下にしてやるつもりで堀江座を出た事は、まあ\/と我慢して引続き後援をつづけた。処が 三年程経った明治三十九年 又又文楽を出て 堀江座の方へ走って了ったから 杉山さんはその無定見に怒ってしまひ一辺 大隅の面倒は見ないと云った。明治四十年 東京の明治座で一座を開ける事があった。杉山さんは 大隅と絶交しているから 聞きたくても明治座へ行く事が出来ない。或る日大隅は此の布引四段目を語る事になった。大隅の布引四段目は特に好いものであった。それで杉山さんは顔を見られぬ様にして 明治座へ行った処 之が大隅に分った。大隅は今日こそ 元通りに許される時と その日は一生懸命に語り 又それが実に上出来で満場を唸らせた。そして又お許しが叶って杉山さんへのお出入が出来たといふ。此の時 大隅の後ろに控へて 此の名演奏を聞ひていたのが当時の静太夫 即ち 之から御聞きに入れる四世大隅太夫で此の先代の布引四段目を充分に腹に入れて 自分の十八番とした。(吉永)

(布四)
源平布引瀧 四段目の切 鳥羽離宮之段の松波琵琶の處 即ち布引瀧の四段目、これをつめて布四と普通に云はれている。
 此の源平布引瀧は、寛延三年十一月 今から二〇二年前九代徳川家重の時代に初めて上演されましたが、此の時の四段目は恐らく 今日上演される様な布四ではなかったろう。初演から八十八年経った天保九年十一月増補して 竹本理喜太夫 増補源平布引瀧 三人上戸の段として語っている。それ迄は 初演の時を除いて 大抵三段目実盛物語までで終って 四段目はカットされている。尤もその前年の天保八年三世竹本住太夫が四段目を語っているが、九年に書き替へられて 増補となっているのかも知れない。それから後は、豊竹八重太夫 三世竹本長門太夫 六世竹本染太夫等の名人に依って 此の四段目が上演されて今日の様な布引四段目が出来上がったものと見られる。今日の布四は、錦風即ち錦太夫の風となっているもの、今から一一四年前の天保時代のものではないかと思われる。松波検校 実は多田蔵人行綱が、鳥羽の離宮へ忍び込んで 清盛を討ち、同時に後白河法皇を救ひ出さうとするが、仕丁の平次 実は 難波の六郎が こいつ怪しいと睨み 又 此の御殿には 行綱の娘 小櫻が宮仕へとして入っているが、これが行綱の娘であると目星をつける。さうして此の小櫻を紅葉の樹に吊し下げて 父親の名を白状せよと拷問する。一方、松波検校には琵琶を弾かせて その音律の乱れ具合に依って 本物の松波検校か「にせ物」かどうかを確かめようとする。此處の趣向は阿古屋の琴責めとよく似ている。蔵人行綱の「にせ物」の松波検校は、初めは平気を装って琵琶を弾きますが 眼前に娘が折檻されるのを見て 堪らなくなって 蔵人行綱の正体を表はし奥の音羽山へ小櫻をつれて逃げて行くと云ふ筋である。
 此の段の山は 初めの三人上戸の處 それと此の小櫻責め それから松波の琵琶の處で これは三味線の聞かしどころ とから三つある。琵琶の音色を聞かす処は、道八の独壇場で 二世団平の直伝と聞く。此の琵琶の音色は 三味線の駒に特別の駒をかけるので道八は金属製の駒を工夫した。此の道八は、布四の琵琶の處を 琵琶の神様である弁天様へ奏曲する為 安藝の宮島へ参詣して 神前で演奏したといふ。(吉永)

(志渡寺)
「志渡寺」程 多くの名人を殺したものはないと、先覚の杉山茂丸はいふている。源太左エ門の言葉、宇合のあとさき、ぱっと息使いの変る處は相当な体格と声量が無くばやれないやうだ。三味線も同様で、之に息を合はして行くのだから並大抵ではない。名人団平は明治三十一年四月一日、稲荷座の初日、大隅太夫の此の三味線を弾き乍ら最後の半ページで舞台で仆れた事は有名である。
「志渡寺」は 今から百七十年余前に出来た花上野誉石碑という浄瑠璃の四段目の切であり、讃岐の志渡寺を背景にして居る。志渡でらを志渡寺と読んでいるのは浄瑠璃訛りとでもいうのであろう。七才の子供の田宮坊太郎は、父が森口源太左衛門の為闇討に会ってから、此志渡寺へ預けられて居る。叔母婿の槌谷内記は、敵に油断をさす為、坊太郎におしをよそわせて居る。乳母のお辻は、それとは知らず誠の唖と思い、火絶ち穀絶ちして全快を金比羅さまに祈るのである。
坊太郎は、子供心にそれを気の毒に思い、果物だけしか食わないと聞いて、お寺の果樹園から桃を取って来たのであるが、折あしくそれを見つけられて森口の折檻にあい、座敷から蹴落される。以上がレコードまでの此の段の荒筋である。此レコードでは源太左エ門の憎々しい處が省略せられて、お辻と坊太郎ぼ二人が庭に残されている處から始まって居る。

( 花は昔と散りうせて...   涙に暮れけるが )

このレコードは静太夫といった頃のものであるが、流石 紋下候補に上げられて居ただけにどっしりしたものである。

( これ和子 心をため直し )

息のつんだ立派なものである。しかし「今の心をため直し」などは一寸甲が屈きかねるように思う。下駄場や姫戻りを六本七本の調子でやられる時もある。

( これ一枚 塵一本 目も当てられず いぢらしゝ )

 レコードは、坊太郎が唖をよそおって口を利かず、砂の上に指先で文字をかき、お辻に読ますという 所謂砂書きの處から始まる。これが又難しい處だ。
攝津大掾は、後継者の三代目越路にさえ、この浄瑠璃を語る事を兔さなかったという位、難しい浄瑠璃である。

( 何思ひけん坊太郎... )

 詞のはこびや、間などは立派なものだ。吉弥の三味線も仲々よく弾けている。
こゝの處は、ラジオや蓄音器ならば聞いて居られるが、見台の前で聞いて居ると、何となく物すごく恐ろしくなる。この後の「金比羅権現も見放し給うか」の「か」をお聞き下さい。 (木村)

「四世大隅と道八」
 
之から四世竹本大隅太夫と鶴沢道八に依る 忠臣蔵三段目と堀川猿廻し 大隅も血圧が高くなって悩んで居たが、遂に一昨日の七月十二日午後八時六分 神戸の川崎病院でなくなられたので此の放送は大隅追悼の放送となった。
 此の大隅は、先代の三世大隅太夫の行き方と同じ様にサラ\/と運ぶ語り方で、文楽座では、山城の少掾に次ぐ名手であり、一部の玄人なり又愛好家の中で大変に好まれていた。大正二年静太夫時代に先代の大隅太夫について台湾へ行きまして、大隅太夫は此の地でなくなったが、その時大隅太夫の遺言に依り、春子太夫や当時の伊達太夫後の土佐太夫、その他先輩が沢山ある中で特に選ばれて大隅太夫の名跡を譲られたので、如何に先代に可愛がられていたか御分りの事と思ふ。それから十四年経った昭和二年二月に静太夫から四世大隅太夫になり、鶴沢道八を相三味線に迎へた。此の時代が一番油の乗り切っていた時であろう。これから御聞きになっても分る通り大変品の良いスッキリした語り方である。一方三味線の鶴沢道八は大正十三年十一月、約三十年振りで文楽座へ帰って当時の紋下三世竹本津太夫を弾いてゐたが、此の静太夫が大隅太夫を名乗る時に、津太夫から離れて新しい大隅太夫を弾く様になった。先代の大隅太夫は大名人二世豊沢団平にうんと叩き込まれて遂に攝津大掾と並ぶ明治期の名人となった人、即ち団平の仕込みである。又道八はこれ又団平の芸風お慕ってその教えをうけ、その芸風を伝えた人、此の大隅は先代大隅の型をよく守ってその通りの語り方をした方をした人、こう並べて見ると、このレコードから、団平と先代大隅の芸風の流れを偲ぶ事が出来るのではないかと思ふ。そこで今日は時代風の「忠臣蔵三段目」と、世話物であって、三味線を聞かす「堀川猿廻し」を選んだから此の対象的な二つの語り物をとっくと御鑑賞願いたい。

(忠臣蔵三段目)
大隅太夫は中々立派に語っている。一方道八は、充分に間を持たせている。
間が延びている様に聞えるが、之れは肚の中で大変な仕事をしているので、そこらの苦心をよく買って上げたいと思う。この録音は道八、六十才位、大隅さんは四十七才位の時と思っている。
 師直の「ムゝハゝ」の大笑いを省いているが、私はこの方が好いと思う。それから段切の「放せ本蔵 放しやれど」答う内「上を下へと」迄、大隅の語りと道八の三味線とが渾然と一体となって殿中の騒ぎの情景は申分なく表わされている。
 次は世話物、道八の三味線を主としたもので「堀川猿廻し」。ツレ弾きは今の鶴沢寛治である。此の猿廻しは先代大隅のがレコードに残っているので、それと比べると仲々先代の型をよく取っている。
 大隅は此処と云う力を入れる処では大きな目を見張って顔をブルブル震わせ乍ら語る癖があった。又道八も油が乗ると一寸顔を舞台の方へ向けて、眼は客席の方を向くと云う癖があった。此処等で大隅、道八共に此の癖を出して熱演していた事であろう。これも昭和三年頃の録音と思っている。
 此の妙芸を持った二人の芸はレコード以外で聞く事が出来なくなった。道八は昭和十九年十一月二十八日午前十時 神戸下山手の自宅で老衰のため、七十六才で歿。
又四世竹本大隅太夫は 一昨日七月十二日午後八時六分 神戸茶山町の川崎病院で満七十才、数え年で云えば七十二才で歿。病気は十一日午前二時より危篤状態に陥り、同輩や門弟等の豊沢初園、竹本隅瀧、竹本春駒、それから静太夫の奥さん、門弟では素人のあいつ、隅代、それに家族の方々の手厚い看護を受け乍ら安らかに息を引取った。臨終に居合わせた方々一同、堀江系最後の太夫がなくなったと云って声を上げて泣いた。誠に惜しい事である。尚最後の相三味線は目下文楽へ出ていられる二世鶴沢清八である。(安原)