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名人のおもかげ資料 竹本越登太夫

        

使われた音源 (管理人加筆分)
ニットー 近頃河原の達引 堀川猿廻しの段 竹本越登太夫 竹澤団六
ニットー 菅原伝授手習鑑 寺子屋の段   竹本越登太夫 鶴沢浅造  音源

        

放送記録
367回 昭和27年4月23日 解説:大西 竹本越登太夫の「堀川」と「寺子屋」

           

(四世越登太夫)
 竹本越登太夫は 明治廿二年 大阪北炭屋町に生れ、十八歳ころから藤枝といって素人義太夫に出て居たが、廿四歳で三世竹本越路太夫に入門して、竹本越登太夫となった。美声の太夫で現今の八世竹本綱太夫のつばめ太夫時代に、亡くなった四世南部太夫(当時越名太夫)と互角の技を競ひ、前途を嘱望されて居た。師匠の越路太夫の没後は、現今の山城少掾の古靱太夫の預り弟子となった。大正十五年、三十八歳で亡くなる。

 越登太夫は名人とか上手とか、すでに立派に名なした人といふでなく、将来に大きな期待をかけられながら、若くして亡くなった有望な太夫の一人といへよう。
越登太夫は三世越路太夫の弟子の内でも、ズーッと末席にあった。美声家と言ふばかりでなく、少しも下卑たところがなく、将来は立派な三段目語りにもならうかと言ふ太夫であった。写真などではさうはかんじられないが、反っ歯の人で、由来歯のそった人には美声家が多く、高名となった太夫にもさうした実例がある。それは口腔のくりが深いのが発声に都合がよくて、誠に耳ざはりのよい声が出るかららしい。この越登太夫が今生きて居ると、丁度 文楽座の八世綱太夫に匹敵する位置に占めて居るであろう。
四世野沢勝市が補導格となって「研声会」と言ふものを作って旅へ出たが、つばめ太夫(八世綱太夫)が二枚目であると、越登太夫と亡くなった四世南部太夫(当時 越名太夫)とが交替でシンと三枚目をつとめて居た。
かうした時は、越登は地合(節)はうまいが、詞は拙い。反対に越名は詞が上手だといふのが定評で、本興行では滅多とつかない様な「茶屋場」のおかるや「琴責め」の阿古屋などを語って居た。

(阿古屋) 阿古屋と言へば 重忠や岩永から景清の行方をあかせよと責めたてられるところで
 この上のお情には一そ殺して下さんせと、とんと投げ出す身の覚悟
と言ふところがあるが、越登太夫はこのテテーン とんとーといふ一節が、一際高く、美しい声で語るので、楽屋に居る連中も、スーツとよい気持ちになって、摂津大掾の全盛時代はこのようではなかったかと思はれる程で「あいつは、これ一つで得をしよる」といふ同僚もあった。
伊達太夫、(後の六世土佐太夫)の天下茶屋の宅で若手の芸を奨励する会で「大序会」といふのが開かれて居たので越登太夫が「国姓爺」の楼門を語った。三味線の鶴沢友二が、どう勘違ひしたのか、段切れ近くで調子があがるところを、一度あげてから又、もう一度調子をあげたから堪らない、丁度大序を語る時のやうな高調子になったが、越登太夫は更に動じる事もなく、充分にこれを押し切って勤めたと言ふことが一つ話に残って居る。美声家といふものの、又乙の声も充分につかへた人で、東京で「絵本太功記」の鉄扇の段がついて、本人は「どうしよう どうしよう」と、ひどく気の弱い性質であったので、ひとり案じて居たが
襖からりと出て来る武智
と言ふ件の光秀がおどろくほど立派に語られてゐたと言ふ事である。預りの師匠であった山城少掾も、「越登が生きてゐたら立派な三段目語りになってゐるでせう」と折紙をつけてゐる位である。(大西)