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名人のおもかげ資料 竹本春太夫

       

使われた音源 (管理人加筆分)
ライロホン 明烏    山名屋の段  竹本叶太夫 野澤吉松
トオア   艶容女舞衣 酒屋の段   竹本叶太夫 鶴沢叶  音源
トオア   八陣守護城 正清本城の段 竹本叶太夫 鶴沢叶

     

放送記録
241回 昭和26年8月31日 解説:安原(仙三)竹本春太夫の「明烏」「酒屋」「八陣」

     

(春太夫)
 七世春太夫は 明治六年四国の丸亀で生れ、本名を橘 米吉といふ。明治十九年の暮 二世鶴沢叶の門に入り鶴沢叶吉と名乗って三味線を弾いてゐたが、明治二十五年竹本越路太夫後の竹本攝津大掾の門に入り、竹本叶太夫となる。昭和十六年十月七世竹本春太夫となり、昭和十八年一月十一日 七十一才で歿。(安原)

 七世春太夫は 前名を竹本叶太夫といひ、明治の終りから大正年間にかけて活躍した。四国丸亀で生れ、明治十九年二世鶴沢叶の門に入門。此の二世鶴沢叶と云ふ人は金照といって、当時三味線の大御所であった。此の二世叶の弟子が二世鶴沢鶴太郎で、此の二世鶴太郎の弟子が、かの有名な三世鶴沢清六、即ち今の山城少掾をあの様に偉大な太夫に仕込んだ三世清六、此の三世清六の弟子が四世鶴沢叶 即ち現在の二世鶴沢清八である。七世春太夫は、此の二世鶴沢叶に入門して鶴沢叶吉といって初めは三味線弾きであった。その叶に懇願されてその養子となり橘姓を継いでゐたが、三味線の質はどうもあんまりよくなかった様である。それで、明治二十五年師匠であり、養父である金照の二世叶がなくなった時、越路太夫後の竹本摂津大掾の門に入り、太夫の方へ転向して初代竹本叶太夫を名乗った。太夫になっても此の人の浄瑠璃には一種の癖といふか、独特の節廻し、ウレイを利かした、スネル処の多い、ハンナリした処のない大変な損な語り方があり、力の割合に受けない気の毒な太夫であった。従って語り物でもよかった物は、「累」の土橋、「二十四孝」の盲勝頼の切腹、「ひらがな盛衰記」二段目の切、源太の勘当場、それから「長局」「日向島」の花菱屋など、今時余り上演されない皮肉物に独特の味があった。殊に「長局」など尾上のウレイがよく利いて、一方お初がサラリとして大変な評判をとったものだ。又口に合はぬ様に見えてよかった物に「菅原」の佐田村、「紙冶」のちょんがれ、「中将姫」などがある。太夫としては、どちらかと云へば、理論派、インテリ風で、趣味も絵を描くとか、茶碗を焼くとか、茶を立てるとかに凝って、又字が実に巧く、大阪の雲和先生について稽古して居た。私もその絵や書を持って居るが、絵の方には今一息と云ふ感じがないでもないが、書の方は実に立派で、大家の風をなしてゐる。だから純然たる文楽座の人であり乍ら割合に不遇で、御霊文楽が焼けて、道頓堀の弁天座へ移った文楽座の昭和二年四月興行を最後に一時文楽座から引退し、悠々たる生活を送り、専ら茶の湯を楽しんだり、九州迄茶碗を焼きに行ったりしてゐた。此の間、昭和五年暮、松竹を離れた「株式会社御霊本文楽座」設立を計画し、大問題を起した事のある様な一種の理想派の人である。

(明烏)
今日は先づその七世春太夫、当時の叶太夫の「明烏」から。此の「明烏」は江戸のもので、義太夫畑のものではなく、又春太夫の口に合ったものではないが、何故此の様な浄瑠璃を選んで吹込したのか分らない。吹込は明治四十三年頃かと思ふ。三味線は若くして惜しまれてなくなった野沢吉松。
( 人の情に... 何とならうと思はんす)
「今宵別れて」のあたりは巧く語ってゐる。
( 死なねばならぬ...)

(酒屋)
次は三勝酒屋。此「酒屋」も春太夫の口に合はぬものの様だ。がレコード会社が販売政策の為、こんなものを吹込ましたのであろう。尤も春太夫は此の「酒屋」の口、端場の処は素敵に巧かったといふ事を古老は云ってゐる。
( 跡には園が... 子迄なしたる三勝殿を)
只今の「世の味気なさ身一つに」や「一人言」などに春太夫の癖がよく出てゐる。三味線は当時の叶、今の二世鶴沢清八である。
( とくにも... りんね故)
文楽の太夫となると何と云っても、危気がない。此のクドキの聞かせ処である「思へば\/此の園が」など巧いものだ。此のレコードは大正八、九年頃の吹込みではないかと思ふ。

(八陣)
次は「八陣」。此れも三味線は当時の四世鶴沢叶、清八は十三年間も此の春太夫を弾いてゐた。
( 我本城に... こなたは猶もすり寄って)
これなんか割合によく出来てゐると思ふが、主計之助の詞や節の癖が気になる。然し大まかな中に何とも云へぬ味ひがあるのは矢張りその貫目の為であろう。
( イヤコレ申し...)
春太夫の名は中々重い名で、代々名人が出てゐる。殊に五世春太夫は明治初期の名人で竹本摂津大掾も、三世竹本大隅太夫も共に五世春太夫の門弟である。六世春太夫は竹本摂津大掾の前名、即ち人気のあった越路太夫時代を経て明治三十六年一月、六世竹本春太夫を相続し、その年の五月に竹本摂津大掾を小松宮より受領した。爾来春太夫の名跡は摂津大掾の二見家にあったが、大掾の養子 二見文治郎が、大掾の門弟である叶太夫の人格に惚れ込んで、春太夫名を叶太夫に譲った。それで昭和二年以来文楽座を休んでゐた叶太夫は昭和十六年六月再び四ツ橋文楽座へ出勤、その年の十月、此の重い名跡春太夫の七世を名乗った。然し此の時代の春太夫は既に衰えてゐて、好い処はなかった。ただ昭和十七年九月の「菅原」三段目訴訟の段だけは非常な傑作で、流石に名手であるとうなづかせた。(安原)