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名人のおもかげ資料 鶴澤觀西翁

使われた音源 (管理人加筆分)
ほうがく 伊賀越道中双六 沼津 二世鶴沢觀西翁 三世鶴沢寛治郎
ほうがく 絵本太功記 尼ヶ崎 四世竹本南部太夫 二世鶴沢觀西翁

放送記録
415回 昭和27年8月1日 解説:安原(仙三)鶴沢観西翁の「尼ヶ崎」と「沼津」

    

観西翁
 二世鶴沢觀西翁は本名を梅本和三郎と云ひ、元冶元年十月大阪の上福島で生れ、十一才の時五世鶴沢寛治の門に入って鶴沢小寛を名乗った。十八才で鶴沢文吾となり、師匠の歿後六世野沢吉弥の門に転じ野沢和三郎と改め次いで鶴沢大造となり、大正八年には竹本若太夫となって 京都の竹豊座にも出た。間もなく東京へ帰り 七十五才の時二世鶴沢観西翁を襲名、昭和十七年の十月 興行には五十一年振りで四ツ橋文楽座へ出演、十種香の掛合の三味線を弾いた。
観西翁と云ふ名前は、初代鶴沢寛治が引退して隠居名として用いた名前で、由緒ある名跡である。二世鶴沢観西翁は大阪人であるが、晩年は東京に居たので 東京の方に馴染が多い。若い時は三味線弾きで 後、竹本若太夫となって太夫にも転じた。若太夫といふのは豊竹の元祖の名なので、ひそかに遠慮があって 竹本若太夫と稱してゐたと云ふ。野沢和三郎と云ってゐた時代は松島の文楽座へ出勤してゐた。二十代の事で 谷太夫時代の九世竹本染太夫を弾いてゐた。二十六才の時に二世竹本相生太夫に呼ばれて 上京した。之れが後年東京住ひとなる始めである。此の時は野沢八兵ヱとなってゐたが、桐生太夫と共に再び大阪へ来て御霊文楽座へ出勤し、法善寺津太夫(二世)の堀川や引窓を弾いた事もある。間もなく又上京してそれから後は素人名である梅本香伯と云って素人の三味線を弾いてゐた。
 元来男気のある人で、東京の侠客とも交際深く、又当時の名横綱常陸山とも交りがあって、新講談の伊藤痴遊とは格別深い行来をしてゐた。観西翁の左の小指は半分よりなく之れには何か艶話か或は政治に関係のあることかも知れない。昭和十七年十月四ツ橋文楽座へ五十一年振りに出勤した観西翁は「廿四孝」の十種香を弾いたが太夫は四世南部太夫の八重垣姫八世綱太夫の勝頼、十世若太夫の濡衣 四世大隅太夫の白須賀 住太夫の原小文吾 山城少掾の謙信と云ふ豪華さで翌十一月興行も引続き十種香を上演し、今度は八重垣姫を綱太夫、勝頼を住太夫、濡衣を故人の重太夫、謙信を故人の七世春太夫と云ふ顔ぶれで両興行共、文楽最高の掛合に三味線を弾いた事は、まだ記憶に新しい処である。此の二興行限りで又東京へ帰ったが、昭和二十一年だったか、小田原附近で八十四才でなくなった。
(安原)

(沼津)
先ず初めは観西翁の得意とした「沼津」。三味線はいまの六世寛治。昭和十五年の秋観西翁七十八才の時の録音である。
( 灯の消えたるは、灯火の消えしより。)
染太夫風のしんみりとした味がよく出てゐる。次の「思ひ付きしが身の因果」の「因果」をわざと訛って語る。江戸訛りで之の方が好い、近頃は大概訛らないが、之れは訛った方が好いと云ってゐた。それから「思ひし事は幾度か」は巧い事語ってゐる。
( アノ妙薬をどうかなと心ぞ思ひやられたり。)
此の「沼津」は小揚から段切り迄全部いれてある。
(安原)

(尼ヶ崎)
太夫は四世竹本南部太夫で「太功記」十冊目尼ヶ崎。之れも昭和十五年秋の録音で観西翁七十八才の時である。
( ハッと驚き口に手をあてこなたも武士の娘じゃないか。)
 少し飛ばしまして、操のクドキ。此の観西翁はハッハッと云ふ懸声で太夫を上手に三味線に乗せる事に妙を得てゐた。師匠の五世鶴沢寛治もこう云ふ弾き方であったと云ふ。
(  妻は涙にむせ返り涙に誠あらはせり。)
 最后に観西翁の健腕振りを示す段切れ。之れが七十八才の老人の三味線であるから、その意気の盛んなに驚く外ない。
( 二世を固めの末の世迄も残しける。)
 此の尼ヶ崎も一段全部レコードに残してある。
(安原)