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名人のおもかげ資料 三世竹本南部太夫

使われた音源 (管理人加筆分)
米コロンビア 菅原伝授手習鑑 寺子屋 三世竹本南部太夫 四世鶴澤鶴太郎 (音源テープの試聴は、国立文楽劇場に問い合わせ)
シンホニ―  菅原伝授手習鑑 寺子屋 三世竹本南部太夫 四世豊澤猿糸 音源

     

放送記録         

11回 昭和25年11(?3)月24日 解説:高安(六郎)三世竹本南部太夫の「寺子屋」
365回 昭和27年4月21日 解説:安原(仙三)三世竹本南部太夫と六世鶴沢友次郎の「寺子屋」
387回 昭和27年6月10日 解説:木村(豊三郎)三世竹本南部太夫の「寺子屋」

(南部太夫)
 三世竹本南部太夫は、本名を前田卯之介、慶應元年九月七日神戸の兵庫生れ。
明治二十三年に、二世竹本長尾太夫に入門し鶴尾太夫の名を貰ったが、僅か三年余で師匠に死別。改めて越路太夫後の攝津大掾の弟子となり、明治三十二年四月に三世竹本南部太夫を襲名。南部太夫になってから、めき\/と腕を上げた。
大正十一年四月二十四日、夕食后に後に長尾太夫になった鶴尾太夫と碁を囲んで居る時、突然脳溢血を起し、五十八才で歿。南部太夫は 一見芸界の人とは思えぬような風体をして居たが その時 いなせな気分があったと見え 当時大阪角力で鳴らしていた秀の海 大林などいう力士と兄弟分になったりして居た。芸の上では攝津大掾の全盛時代で 誰もがそうであったが 特に同じ声柄のこの師匠に陶酔して居た。彼の芸は全く師匠の模倣という事が言えると思う。
「壺坂」「柳」それから 此の「寺子屋」などが得意。声がきれいな計りでなく「壺坂」の奥の詠歌の件りで、澤市とお里の詠歌の声の使い分けや「柳」の音頭の 一に権現二に玉津島の音頭と百姓の声を、一々語り分けるような器用な眞似は、誰も出来ない処である。
このレコードは三味線鶴太郎、今の清八である。清八とは大掾が「寺子屋」を語った時二人でその端場寺入りをやったことがある。
二人は揃って堀江の方へ拵えものに行ったが、「建て稽古」を聞いた師匠から大変叱られ、又文楽風にやり直さされたそうである。
( 色白々と瓜実顔... ...子計りなって立ち帰る)
友次郎師の三味線で入れられたものを掛ける。
首実験も終り、玄蕃は館へ立ち帰り、千代のとりやりから 松王も出た其奥である。これから松王が 若君様へ御土産と言うて 御台所の乗って居られる駕篭を呼び 一同を驚かせる処があるが、レコードでは省略されて居る御台所は既に正面へ出て居る。この「寺子屋」のいろは送り「太功記」の これ見給へ光秀殿「壺坂」の 三つ違いの兄さんと、等は誰もが文句を知って居て、そして眞似あいものであるから、世間でも一番人気があるののだと思う。どの太夫も、どの太夫も寺子屋を蓄音機に入れて居るという事は 人口に  膾炙し レコードの商品価値も高いからに違いない。現に南部太夫も三通り吹き込んで居る。御聞きの通り南部太夫は 口捌きのよい足取りのきれいな浄瑠璃である。(木村)

(南部とレコード)
 三世竹本南部太夫、三味線六世鶴沢友次郎の「寺子屋」。
此のレコードは明治四十二年頃の吹込と思うから、友次郎は当時、四世豊沢猿糸と云ってゐた時代である。
此の南部太夫は「寺子屋」が余程好きであったと見えて、明治三十八年頃に鶴沢鶴太郎、即ち今の清八、又明治三十九年には、四世豊沢猿糸、即ち後の六世鶴沢友次郎で、夫々米国コロンビアの十二寸盤に「寺子屋」を入れているが、何分にも非常に雑音の多いレコードで、余程、趣味のある方でない限り此の放送には不向きと思う。其の後、日本のレコード会社として、初めて発足した当時の日本蓄音器商会、後のニッポノホンになったが、此のレコードへ此の「寺子屋」を吹き込んだ。これがさっきいった明治四十二年、此の方が録音が稍好いので、今日は此のレコードを撰ぶ。
南部太夫は攝津大掾の門弟であり、又大変、大掾に忠実に仕えて、大掾風の浄瑠璃を語っていた。明治三十七年、大掾は「廿四孝」の十種香をレコードに吹込んだが、その売出し方法に、販売店との間に問題が起って ― これは金銭上の問題ではなく 芸術上の問題であるが、そのいきさつの為に、大掾は門弟の三世越路太夫、三世南部太夫、その他に、今後レコード吹込は相成らんときつい申し渡しをした。越路太夫は此の言い付けもあり、又自分の芸道上の主張もあって、一度もレコード吹込みをやらなかったが、此の南部太夫は、日本蓄音機会社の懇望もだし難く、三世大隅太夫の「堀川」「壺坂」と共に此の「寺子屋」を師匠の攝津大掾には内証で吹込みました。之等のいきさつがあったので、会社の方でも 大隅太夫の分と、それから、長唄の芳村伊十郎、それに此の南部太夫、此の三名人のレコード丈は特殊扱いをして、レコードに特別のレベルを付け、値段も他の物より高くして売出した。(安原)

(寺子屋)
( 小太郎が母涙乍ら... ...呆れて言葉もなかりしが)
大変綺麗な派手な語り方である。
攝津大掾の語り方は大体こんな風ではなかったかと想像している。「梅は飛び」のところなど、一寸錦絵を見る様な感じがする。
( 死顔なりとも... ...かつぱと伏して泣きければ)
「寺子屋」は松王の首実験迄が西風で、それから後の方、女房の千代の戻りからは、東風の派手な語り方に変る。南部太夫と云う人はこう云う東風のものや、世話の艶物を得意としていた太夫であるから、こう云う処は大変面白く聞き事が出来る様に思ふ。
( コリヤ女房... ...共にひたする有難涙)
次は段切れ迄、続けてやる。此の辺 友次郎の三味線が大変に見事で、太夫一つ一つ前に進み、よく太夫を助けている。こんなに弾いて貰うと太夫も大変語り好いと思う。殊に段切れの「いろは送り」が 水際立った見事さで、色々な「いろは送り」を聞いているが、この南部太夫、友次郎に依る「いろは送り」程好いのを聞いた事がない。
( コリヤ\/ 女房... ...連れ帰る)
これで南部太夫、鶴沢友次郎に依る 寺子屋を終る。
南部太夫は大変声の好かった、美しい音だったから、「忠臣蔵」七段目のお軽などをやれば、掛合の他の太夫が皆喰われて了ったと云う事である。昔の人に聞くと、痩せていて風采の上らない人の様であったが、世話物など語ると、どこからあの情合が出て来るのかと不思議がったそうである。
大正十一年四月、御霊文楽座で「白石噺」を語っていたが、その月の二十四日、舞台を済せて帰宅後、後の長尾太夫、当時の鶴尾太夫と碁を打っている最中、脳溢血で五十八才を以て歿。(安原)